両手がなくて唯一不便を感じたのは、感謝の心を表すために合掌ができないこと。究極の”足るを知る”を実践した中村久子
中村久子という人をご存知でしょうか。
明治30年に生まれ、難病「突発性脱疽(だっそ)」で両手両足の切断という重い障害を抱えながら、72年の人生を感謝に生き抜いた女性です。
奇跡の人として知られるかのヘレン・ケラーが来日して、中村久子さんに初めて面会した時、「私より不幸な人、そして偉大な人」と涙を流して言ったそうです。
中村久子という偉人
飛騨高山の貧しい畳職人の家でしたが、両親の愛を一心に受けて生まれました。しかし、彼女が三歳の時、突発性脱疽という病気を発症します。生きながらにして、骨と肉が腐り、身体の組織が壊れてしまうという恐ろしい疾患です。
特発性脱疽(だっそ)とは、手足の爪(つめ)の周りや指の間に、治りにくい傷ができて、ひどくなると足の指が腐ってくる疾患。最初に報告者したアメリカ人の名前からバージャー病とも、閉塞(へいそく)性血栓血管炎とも呼ばれます。
体の組織の一部が生活力を失う状態を壊疽(えそ)または脱疽といいますが、このような病変が手足の指に起こるのは動脈が詰まるためです。特に膝(ひざ)から下の足と腕の動脈が、原因不明の炎症によって血管の壁が厚くなり、血流障害ができるために、そこで血液が固まり、詰まってきます。
医師からは「両手両足を切断しなければならない。しかし、子供だから手術に耐えられるかわからないし命の保証もできない」と言われます。両親は「切らずに治してください」とすがり、父親は藁をもつかむ想い新興宗教に走ります。
久子さんの治療費と新興宗教へのお布施で、一家は貧困を極めます。
ある日、久子さんのけたたましい叫び声。母親が驚いて駆けつけると、白いものが転がっています。左手首が包帯ごと、もげて落ちていたのです。母親はあまりの驚きと悲しみで、その場で失神したと言います。
久子さんは病院に担ぎ込まれ、その月のうちに左手首についで右手首、次に左足は膝とかかとの中間から、右足はかかとから切断されました。その後も、何度も手術を繰り返します。
そのうち、父親が亡くなり、母親も病気になります。生活苦から、自ら見世物小屋に入り「だるま娘」として23年もの間、好奇の目にさらされました。それでも他に生きる道がないため、じっと耐えたのです。
(中村久子さんの凄いところは、ここから自分の力で人生を好転させていったことです。あなたが久子さんの立場だったら、この状況から立ち上がれますか? 私にはムリかも。ホントすごいです)
久子さんは、生きる希望を絶対に捨てませんでした。独学で読み書きを覚え、本を読んで教養と精神性を高めました。そして結婚、出産、育児までも立派にこなします。両手がなくても料理を作り、口で針と糸を操って人形を作りました。
究極の「足るを知る」
我唯足知(我、ただ、足るを知る)
晩年は全国を講演して回り、障害者をはじめとして多くの人々に勇気を与えつづけた中村久子さんは、次のような詩を残してます。
『ある ある ある』
中村久子
さわやかな 秋の朝
「タオル取ってちょうだい」
「おーい」と答える 良人(おっと)がある
「ハーイ」という 娘がおる
歯をみがく 義歯(いれば)の取り外し
かおを洗う
短いけれど 指のない まるい つよい手が
何でもしてくれる
断端(だんたん)に骨のない やわらかい腕もある
何でもしてくる 短い手もある
ある ある ある
みんなある
さわやかな 秋の朝
中村久子さんは大変な読書家として知られていますが、特に歎異抄を愛読し、そこから無の世界を学んだそうです。
手も、肘から先が無いのではなく、肘から上が有るのです。
足も膝から下が無いのではなく、膝から上が有るのです。
中村久子さんは、後援会でいつも「人生に絶望なし」と強調したそうです。また日常生活においても「いのち、ありがとう」を口癖とし、常に感謝の心を忘れなかったといいます。
感謝の心⇒品格
以前、『誕生日とは、プレゼントをもらう日ではなく、親に感謝する日』という記事で「足るを知る」の向こう側には感謝の心があるということを書きましたが、中村久子さんはまさしく、「コップの水はまだ半分ある」どころか「わたしの手足はまだ半分ある」という究極の悟りの境地に至った偉人だったと言えます。
手足がないことを嘆くのではなく、「いのち」が与えられたことに心から感謝したのです。中村久子さんは死ぬまで自分を生んでくれた母親に感謝しつづけ、高山市国分寺の境内に悲母観音像を建立し、開眼法要を営みました。
感謝の心に溢れた、品格ある生涯。こんな生き方を目指したいですね。
・参考文献