もしも三十六歳引きこもり独身女がフリースクールに入ったら
さようなら
かつて窓があった辺りで、大きな崩落が起こった。畳まずに積み重ね続けていた段ボールコーナーがとうとう決壊したらしく、脱ぎ捨てていたジャージやペットボトル、ビールの空き缶、コンビニ弁当の入ったゴミ袋などの上に、無慈悲に色、大きさ様々の段ボールが落ちてきた。崩落は数秒ほどでおさまったが、もはやジャージを救出する気にもならなかった。部屋の中心部にまで進出してきた段ボールを足蹴にして、床の見えるスペースをわずかに確保し、そこにどっかりと腰をおろした。
これでは横になることが出来ない。アケミはぼんやりと段ボールの雪崩後を眺めていたが、意を決したように大きめの段ボールを一つとって畳み、それをデコボコした段ボールコーナーに敷いた。そして背中からそこに倒れ込んだ。
体重が段ボールやその下にあるコンビニ弁当、空き缶を押しつぶす感触があり、身体は三十度ほどの傾斜で落ち着いた。うん、これなら眠れないこともないだろう。アケミはそこを新たな睡眠スペースと決めた。
ピンポーン。
特に宅配を頼んだ覚えはない。新聞か宗教の勧誘だろう。
アケミは斜めに寝そべったまま、目についた漫画本を手に取った。古本屋で全巻セットで安売りしていたもので、見たことも聞いたこともない漫画だった。おそらく少女漫画というジャンルになると思う。
目が顔の面積の半分を占めていて太ももから足首まで同じ太さのバカみたいに長い足をした “(自称)普通の女子高校生” が、魔法使いの力に目覚めると同時に魔法界に連れて行かれ、そこで驚くべき才能を発揮するというものだ。実はその女子高生の親は魔法界では有名な天才魔法使いで、その才能を受け継いだ主人公は親を超えるほどの潜在能力を秘めている。
どこかで聞いたような設定を何でもかんでもぶち込んだ闇鍋のようなキラキラストーリーで、幼稚でご都合主義的でバカらしかった。しかも九巻まで一揃いであるという唯一の長所も、三巻と八巻以外は行方不明となった今では失われていた。
しかし、アケミはその漫画をよく読み返していた。現実から乖離していればいるほど、夢見勝ちでバカらしい度合いが増すほど、アケミにとってその漫画は価値ある読み物となった。
ピンポーン。
二度目のチャイム。これも無視する。今は十二月。埃とヤニの溜まったエアコンはフル稼働しているので、メーターを見られれば在宅中とバレるかもしれない。でもだから何だと言うのだろう。私が鍵を開けなければ、何も問題は起こらない。誰もこのゴミ屋敷には入って来れないし、私の姿を見ることもない。
コンコン、というノック音が聞こえた。拳で苛立たしげに叩くのではなく、中指の第二関節で軽く叩いた感じだ。トイレのドアをノックするみたいに、少し遠慮がちだった。親が家賃を払うのを止めたのかも、と疑ったが、どうやらそういう感じではなさそうだった。
「アケミさん、斎藤明美さん。いらっしゃるんでしょう。ちょっと開けていただけませんか」
穏やかな、少し低めの男の声だった。行きつけのコンビニバイトの茶髪の青年ように雑な感じでもなければ、大家のババアみたいに人を小馬鹿にしたような響きも含まれていなかった。
自分に攻撃的でない他人の声、それも男など何ヵ月ぶり、いや何年ぶりだろう。
また軽いノックが繰り返された。
アケミは漫画本を放り出し、むくりと起き上がった。玄関まで歩く途中、忍び足で進んだのにベコリ、グシャ、と様々な踏みつけられたものがことの外大きな悲鳴を上げた。きっと薄いドアの外まで聞こえているだろう。アケミは諦めてゴミ袋を踏み潰しながらようやくドアまでたどり着いた。ドアスコープを覗き込み、アケミは息をのんだ。
髪をきちんと横分けにした、いかにも頭の良さそうな眼鏡の男が一人、立っていた。歳は三十代前半といったところだろうか。仕立ての良さそうな灰色のコートに、白っぽいマフラーを巻いている。十二月ということもあり吐く息が白くなっていて、それが妙にエロティックに見えた。
メチャメチャ良い男っ……!
アケミはたまらず両手で口を覆った。少女漫画の主人公が、恥ずかしい時や驚いた時、感極まった時にする動作だ。しかしアケミの場合は涙の代わりに生臭い息がこもるばかりだった。そういえば歯磨き粉がきれたせいで三日ほど歯を磨いていない。
うんざりする。死にたくなった。どういう理由でこんな人生終了系女子を尋ねてきたのか知らないが、醜く汚い自分やゴミ部屋をこの男に見られるくらいなら今すぐ死んでしまいたかった。
「明美さん、聞こえますか。そこにいらっしゃいますよね?」
返事をするか迷う。しかしどうせさっきの音で在宅中であることはバレているのだ。戸惑いながらも、返事をしてみる。アケミはこの男とドア越しの会話を楽しみたかったが、同時に今すぐに引き返して二度と現れないでほしくもあった。
「……はい」おそるおそる、返事をした。
「ワタクシ、フリースクール白鷺学園の校長をしております、清水と申します。今日はお父様の斎藤幹夫さんからのご依頼で、明美さんとお話させていただくために参りました。ドアを開けてくれませんか」
フリースクール、ということは矯正施設のようなものだろう。今更そんなところに行ってどうなるというのか。明美は五年前にドアスコープ越しに見た父親の悲しげな顔を思い出した。
「帰ってもらえますか」
「そうもいきません。どうしてもドアを開けていただけないならお預かりしている合鍵を使わざるを得ないのですが、僕も、一人暮らしの女性に対してそういう強引なことはしたくありません。もう一度言います。ドアを開けて、僕を中に入れてくれませんか」
「無理です。散らかってるし、その施設にも入るつもりありませんから」
「大丈夫ですよ」
清水と名乗った男はそれだけ言って、黙り込んだ。大丈夫、とは一体なにがどう大丈夫なのか。どういう根拠で言っているのだろう。この汚部屋を見ても卒倒しないという意味だろうか。しかしその柔らかい響きはアケミの心を少なからず安らがせた。
長い沈黙の末、アケミは気が付いたらドアのサムターンを回していた。
「ありがとう」
ノブが周り、ドアがスッと外側に開いた。アケミはまずピカピカに磨かれた品の良い黒の革靴を見て、それから折り目のくっきりついたスーツの裾、重そうな灰色のコートのポケット、黒い革手袋、白いマフラーを見た。男の顔はとてもじゃないが直視できなかった。不快そうに寄せられた眉や、驚きに見開かれた目を見てしまったら、残された人生を死ぬよりも辛い惨めさを抱いて生きねばならなくなりそうだと思ったからだった。
「お邪魔します」と清水が言った。
靴を脱ごうとしたので、アケミは慌てて「靴のままで良いです」と言った。清水は少し静止してから、「じゃ、このまま失礼しますね」と美しい革靴で埃の溜まった段ボールを踏んだ。
ボルダリングでもするかのように、アケミの踏んだ場所に足を乗せて移動しながら清水は付いてきた。異臭を放つゴミだらけのキッチンの横を抜け、元は八畳間だったその部屋に入り、先ほどまでアケミが寝転がっていたスペースに、清水は立ち尽くした。アケミは脇に積み上げてあった図書館から借りっ放しの本の上に腰をおろした。
「こちらには、お一人でお住まいなんですか?」
「はい」自分を人間としてカウントするなら、一人だ。アケミは皮肉めいた笑みを浮かべた。
「お仕事は?」
「してません」
「どれくらい?」
「七年くらい。たぶん」
「家賃や生活費は、ご両親が出してらっしゃるんですね?」
「はい」
「もう働かないんですか?」
「はい。もう良いんです。もう死にたいんで」
「そうですか」清水はそれだけ言って黙った。
「あの……」
「明美さん。あなたがもし、もう一度立ち直りたいと思うのなら、僕は全力でサポートします。あなたに新しく、生活を建て直す場所を提供することもできます。どうですか。一緒に、来てくれませんか」
「イヤです。もう無理です」
「しんどいんですか?」
「はい。人と話してると、疲れちゃうんです。怖いし」
「そうですか」
「小学校のころからいじめられてて、大学出て働いたんでけど、そこでもやっぱりいじめられて。もう良いんです、死ぬから。ほっといてください」
「大丈夫ですよ。フリースクールの校長として色んな人を見てきましたけど、明美さんはまだ若いし、こうしてきちんと受け答えもしてくれる。大丈夫、必ず立ち直れます」
「もう良いんです。立ち直りたいとか思ってないし」
「でも、死ぬこともできないんでしょ」
突然の、突き放すような冷たい口調にアケミは思わず顔を上げた。清水はコートのポケットに両手を突っ込んだ姿勢で仁王立ちし、アケミを見下ろしていた。その恐ろしい、刺すような視線に文字通り釘付けにされ、アケミは目をそらすことも動くこともできなくなった。
「……」
「明美さん。お父さんは、もう精神的にも経済的にも肉体的にも、限界なんです。本当は自分のために使うはずだった老後の貯金を切り崩して、あなたの生活費を支払っているんです。そのことを忘れないで下さい」
「……」
清水はふうっと、ため息を付いてから膝を折った。きれいなスーツにゴミが付いてしまう、とアケミは申し訳なく思った。それから、清水の顔が真正面に来たことで、目線を合わせるために膝をついてくれたのだと気が付いた。
「お父さんは、もしスクールへ行くのが嫌なら、実家に帰ってこいと言っていました。それなら家賃も払わなくていいし、生活費はずいぶん楽になるからと。でもね、明美さん」
そこで言葉を切り、清水は不意にアケミの手を取った。アケミはその手の強さと皮の冷たさにぎょっとした。
「……なに」
「僕ね、思うんですけど……親とはなれたほうが良いと思うんですよ」
「なんで」
「結局ね、引きこもる場所が変わるだけじゃ、お父さんもお母さんも、それに明美さんも、みんな休まらないし、辛くなるだけなんですよ。明美さんだって、今更ご両親と一緒に暮らしたくないでしょう」
「はい。実家に戻るくらいならここで死ぬかホームレスになります」
「うん。そうだよね。でも、死ぬのはダメだから。ホームレスにもならなくて良い。僕と一緒に、うちのスクールに来るだけで良い。絶対に立ち直れる」
「いいです。そんなの今更」
「明美さんも今は辛いでしょうけど、その苦しみを終わらせる方法って、立ち直るしかないんです。ご両親だってもうお年だし、いつまでも面倒は見ていられないですから」
「だから、面倒みてくれなんて、誰も頼んでないってば」
アケミは声を荒げた。清水の手を振り払って、頭を抱え込んだ。もう嫌だ。イヤダイヤダイヤダ死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい。
「今日、この部屋から出よう」
清水はそう言って立ち上がり、アケミの腕をグッと引っ張って強引に立たせた。男らしいの力強さに心臓を高鳴らせ、アケミは清水と自分との距離が三十センチほどしかないことに強烈な怯えを感じた。手を振り払って距離を取る。背中に積み上げた衣装ケースがあたり、上に乗っていた埃まみれの未開封のカップ麺が転がり落ちた。
「は? え、いや、イヤです。無理です。明日、来て下さい。それまでに準備しますから」
アケミはパニックに陥った。何もかもが唐突すぎてさびついた頭がついていかない。
「ダメです。いま出ます。今日でないと、もう二度と立ち直るチャンスはありません。さあ」
清水はもう一度アケミの腕を取ると、くるりと踵を返してドアまで引きずっていった。
「でも、着替えとか」
「必要ありません。服なら途中で買います」
あっという間にゴミ部屋から引っ張り出され、靴下のまま冷たくて寒い廊下に足を踏み出した。
「靴はどこ?」清水が玄関を覗き込みながら訊いた。
「醤油の横」
「……ああ、あった。コレか」
清水は踵のつぶれた汚いスニーカーをアケミの前に置いた。そして、鞄から取り出した合鍵を使って鍵を締めた。
「もうここには二度と戻りません。最後に、さようならをして下さい」
「……さようなら」
「うん、良いね」
清水はよく出来ましたと言わんばかりにポンポンと、アケミの脂ぎった頭を撫でた。校長先生にしては若すぎる。けれどもその時に清水が浮かべていた笑顔は心底うれしそうで、アケミはただ驚いた。
道中
ゴミ屋敷を出て直ぐ、アケミは簡易銭湯に連れて行かれた。平日の昼間とあってか女湯は無人で、アケミは貸し切り状態の銭湯を満喫できた。真ん中のシャワーを使い、シャンプーをたっぷりと使って髪を三回洗った。それから丁寧に身体中の垢を落とし、熱いお湯に浸かった。清潔なバスタオルで身体を拭き、ユニクロで買ってもらった下着とジーンズ、柔らかいとっくりセーターを身につけると、なんだかそれだけで生まれ変わったような気分になった。
鏡を見ると、三十六歳にしては老けた、小太りの中年女が映っていた。しかし、アケミはそれほど悪い気はしなかった。
「うちの学校には明美さんのように辛い目にあって同く引きこもっていた人がたくさんいます。きっとすぐに友達が出来るし、楽しくなりますよ」
清水は白のワンボックスを運転しながら、バックミラー越しにアケミに笑いかけた。
「どれくらい、いるんですか」
「生徒ですか? いま四十九人なんで、明美さんが入れば五十人になります」
「やっぱり、その……若い人が多いんですか」
「十代が半分くらいですね。あとはバラバラで、二十代も三十代も四十代もいます。最年長が四十三歳の男性ですね」
それを聞いて、アケミは少なからず安心した。自分が最年長だったらどうしようと不安で仕方がなかったのだ。
「まぁ、入ってみれば分かると思いますけど、年齢なんて関係ないですよ。誰も気にしてませんし」
清水はずっと、ニコニコと笑顔を崩さなかった。仕事としての態度でも、アケミにとってはありがたかった。
一年
アケミがフリースクール白鷺学園に入寮してから、一年が過ぎた。
入って間もない頃は、引っ込み思案のアケミはなかなか馴染めずにいたが、清水校長が頻繁に気を回して溶け込めるようサポートしてくれたおかげで、今ではスクールのメンバーも気兼ねなくアケミに話しかけ、アケミの方も挨拶をしたりイベントに誘ったりするようになっていた。
精神的にも安定してきたのが自分でもよくわかった。これまでのように自暴自棄になってやけ酒をしたり、くだらないアニメや漫画に現実逃避したいとも思わなくなった。近頃のアケミの不満と言えば、清水校長と顔を会わせる機会が減ってしまったことくらいだった。
校長はNHKのドキュメント番組に出演したり、芸能人とあったり、海外ボランティアに参加したりと忙しいらしく、最近はしょっちゅう外出している。どうやらあの恵まれたルックスが世間的な注目を集めているらしく、女性ファンのようなものまで付いている始末だった。
それでも、寮に帰ってくると誰にも分け隔てなく笑顔を振りまき、自分も疲れているはずなのにメンバーに気を回したり、悩んだり問題を起こした生徒とは何時間でも粘り強く面談をした。スクールの誰もが清水を救世主のように崇め、アケミも例に漏れずその信者の一人だった。
「明美さん、ちょっと良いかな」
アケミがビニールハウスで農作業に精を出していると、清水校長が声をかけてきた。畑だというのに、いつものスーツ姿だった。着替える時間がなかったのかもしれない。
「ふふ」アケミが笑うと、校長が不思議そうに眉を上げた。
「校長って、背景とマッチしないことが多いなと思って」
ビシッと決めたスーツ姿のビジネスマンが、ゴミ屋敷やビニールハウスに出現するのはレアである。はぐれメタルのエンカウント率をさらに百分の一にしても足りないだろう。
清水校長は不思議そうに首を捻って、「そうかな」と笑った。
昼間なので大体のメンバーはバイトに出ているか、部屋で勉強をしている。誰かが作り置いたクッキーや私物の座布団、本がテーブルにチラホラある程度で、ダイニングスペースは人気がなかった。奥の四畳半で一人、男子学生が昼寝をしていた。
「両親と面談?」アケミは思い切り顔をしかめた。
「そう。ココに来て一年経ったよね。だから、面談。ご実家は近いし、ちょっと顔を出してすぐに戻ってくれば良い。行くなら一週間後くらいでアポを取っておく」
アケミは半年前にバイト代を崩して共用に提供したコーヒーメーカーで、二人分のコーヒーを作った。コーヒー豆は気が付いたメンバーが補充しているらしく、色々な銘柄のものがいつでも揃っていた。特に清水校長が好きなキリマンジャロは、切れているのを見たことがない。アケミはカップを二つ手にもち、一つを清水校長の前に置いた。
「えー……でも、今更だし。何も話すことなんてないし」
「何でも良いよ。近況報告でも、今後のことでも、昔話でも。顔を見せるだけでも充分だ」
そう言ってカップを持ち上げた清水校長は、立ち上る湯気で眼鏡を曇らせながらコーヒーを飲んだ。清水校長だけを切り取って見ていると、一流ホテルのラウンジで仕事の話をするキャリアウーマンになったような気分になる。
「それ、どうしてもやらなきゃダメですか」
「どうしても嫌なら強制はしないさ。明美さんが決めればいい。でも、ご両親は会いたがっていたよ。僕も、ここらで一度、会っておいた方が良いと思う。心配なら僕が同席してもいいし」
「……」
「行く? 行かない?」清水校長はチラリと腕時計に視線を落とした。忙しい中、こうして時間を作ってくれたのだ。これ以上、おばさんが駄々をこねて拘束するのは忍びなかった。
「行きます」
面談
十二年ぶりに訪れた実家のマンションはいくらか古びていて、当時は新築だったピカピカのエントランスや最新だった郵便受けも、今では隅に埃が溜まり、ゴミ箱からチラシが溢れているのが物悲しさを醸し出していた。
ドアを開けて玄関に入ると懐かしいにおいがした。六年ぶりに見た父親は驚くほど老け込んでいて、黒に近い灰色だった頭はほとんどまっ白になっていた。顔のシワは濃さを増し、お腹が妊婦のように突き出ていた。
しかし母親の変わりようはそれ以上に目を見張るものがった。十二年前は品のいい、どちらかというと若く見えるくらいだったが、長かった髪は短く切りそろえられ、染めたばかりなのかパサパサになっていた。茶色だが、白髪が目立った。それに、髪のボリュームも極端に減っていて頭頂は地肌が見えるくらいにスカスカだった。さらに鶏ガラのように痩せこけ、背も縮んでいた。
アケミが出て行ってから購入したらしい、始めて見るコタツに入り、やたらに濃いお茶をすすった。
「先生、どうも娘がお世話になっています」父親が清水校長に深々と頭を下げた。
「とんでもない。アケミさんが若い子の面倒を見てくれるので、こちらの方こそ助かっています」
「……そうですか。こいつが、面倒を」
父親は疑うような視線で、無遠慮にアケミを眺め回した。アケミはそれが不快でならなかった。清水校長がにっこりと笑顔を浮かべた。
「ええ。寮の当番やレクリエーションだけでなく、きちんと働いて自活も出来ています。僕としては、もう全く心配していません」
アケミは清水校長の言葉に感激した。心配していない。つまり、信用してくれているということだ。無償に嬉しかった。
「それで、今後はどうするつもりだ?」
今後のことなど全く考えていなかったので、アケミは驚いた。このまま一生、寮にいて清水校長と、スクールのみんなと一緒にいるつもりだった。
「寮は出たくない。もうちょっと、このまま」
「でも、いつまでも学校にいるわけにもいかんだろう。働いて、自活できているんなら、寮を出て一人暮らししなさい。部屋が借りられないんなら、しばらくここに住んでも良い」
アケミは耳を疑った。寮を出て、ここに住む? そんなことはありえない。そんなことになるくらいなら、ホームレスにでもなった方がマシだった。
「まぁ、そう急ぐこともありませんよ。明美さんはまだうちに来て一年ですし、部屋にはまだ空きもありますから、数ヶ月はこのままゆっくりしてもらって構いません。一人暮らしが不安なら、バイトをしながら寮に住みつづけてもらうことも可能です。そういう生徒さんも少なからずいますからね」
「じゃあ、そうさせて下さい。お願いします」
アケミは清水校長に向き直って、即座に頭を下げた。
「しかし、それでは迷惑だろう。良い歳をして、人様のご好意に甘えっぱなしで……恥ずかしいと思わんのか」
父親が苛立たしげに低い声で唸った。
「だから、お金なら働いて払うってば! お父さんたちにも返す。それで良いんでしょ」
「金の問題を言ってるんじゃない!」
「じゃあ何が問題なの! いつまでも、私の人生に首つっこまないでよっ」
「お前の人生なんて無い! 誰のおかげでここまで生きてこられたと思ってるんだっ」
「なに、じゃあ死ねば良かったの? そう思ってたんだ? そうだよね、私だって何度も死のうと思ったよ! 大体私がこんな風になったのはお父さんたちのせいなんだからグチャグチャ一方的に文句いわないで」
「なんだと、こっちがお前のためにどれだけ……」
「はい、はい、はい。ちょっと落ち着きましょう」
清水校長が父親の前に手を掲げ、もう一方の手で前のめりになっていたアケミを引き戻した。
「お父さん、うちの寮についてはさっきも言ったように、明美さんの気の済むまでいてもらうことは可能です。明美さんの今のバイト代で充分に足りるでしょう。一年ではまだ立ち直ったばかりで不安だという生徒さんも多いですから、その辺も考慮して寮は運営しています。だから、お父さんの方から追加費用を払っていただくこともありませんし、スクールに迷惑もかかりません。むしろ、先ほどもお伝えした通り、若い子たちのフォローをしてくれる明美さんは継続していてもらった方がこちらとしてはありがたいくらいです。
それと、明美さん。これまでご両親に支えてもらったのは事実なんだから、きちんと感謝をして、お礼をするのが当たり前。さっきの言い方はあまりにも自己中心的だし、幼稚だった。今日は喧嘩しに来たわけじゃないんだから、そんなに熱くなっちゃダメだ」
幼稚、という言葉を聞き、アケミは頭から冷水をぶっかけられた気持ちになった。どす黒く沸騰していた血液がスーッと引いていき、悲しい気持ちでいっぱいになった。
「……母さんが、入院することになった」父親がボソリと言った。
「そう」
アケミは投げやりに返事をした。そりゃ、もう二人とも七十歳を過ぎているんだし、病気にくらいなるだろう。そんなことよりも清水校長に呆れられてしまったかもしれないという後悔の念で押しつぶされそうだった。
「大腸ガンなの。もう、そんなに長くないわ」
母親が始めて口を開いた。今更、そんなことを言われても、アケミにはなんの気持ちも湧いてこなかった。
「そんなこと、いきなり言われても」
アケミはふてくされたように呟くことしか出来なかった。母親の顔を見ることができない。同情を引いて、介護でもさせるつもりだろうか。そんなのはまっぴらだった。せっかく人生を取り戻しかけているのに、ここに来て全てを取り上げられるなんて絶対に嫌だった。
母親は中腰になり、机の上に出したアケミの手を握ろうとした。
アケミはとっさに手を引っ込めた。
ハッとした時には既に遅く、母親は宙に浮いたシミだらけの老人の手を弱々しく机に落とし、それから腰をおろしてコタツに座り直した。アケミは気まずく机の木目を見つめた。視界の端で、母親がそっと目を拭うのが見えた。
「突然のことで明美さんもちょっと動揺されているみたいなんで、今日は一度、こちらで引き取らせていただきます。大丈夫、また少し落ち着いたら、必ず伺いますので。ご安心ください」
アケミは清水校長にそっと背を後押しされながら、実家を後にした。
アケミは力を使い果たし、河岸に打ち上げられた鮭のようにぐったりと後部座席に横たわった。清水校長は玄関を出てから車に乗るまで、ひと言も口を聞いてくれなかった。怒っているのか、呆れているのか。もう疲れ果ててしまって、それすら考えるのも面倒だった。
「やっぱり、行くんじゃなかった」
「頑張ったな」
「清水校長は、私のこと呆れた?」
「そんなことないよ」
清水校長の声色からはどんな感情も読み取れなかった。それがアケミを落ち着かない気持ちにさせた。
「自分勝手で、幼稚だって言った」
「それは本心」
「……死にたい」
「そうやっていつまでも甘えてちゃダメだ。ご両親の前ではああ言ったけど、スクールだっていつまであるかなんてわからないし、僕もずっとこの仕事をするとは限らない」
「えっ? 清水校長、辞めちゃうんですか」
アケミは驚いて身体を起こした。バックミラー越しに、清水校長と目が合った。その表情は柔らかく笑っていた。この笑顔に、何度救われたことだろう。アケミは不意に視界がぼやけ出したことに焦り、サッと窓に顔を向けた。
「そんな予定はないよ。でも、何があるかなんて分からないだろ」
「良かったー」アケミは心から安心してため息を付いた。さりげなく、こぼれそうになった涙をパーカーの袖で拭った。
「でも、せっかくここまで頑張って立ち直ったんだ。あとはきちんとご両親と決着をつけて、今後のことも考え始める時期だよ」
赤信号で、ワンボックスカーは停車した。
「そうですね。でも、今更あの家に戻るなんて、絶対にイヤです。今まで散々迷惑かけたし世話になったのもわかってます。でも、その見返りをこんな形で要求してくるなんて卑怯だし、こんな関係性のまま介護なんてしてもお互い不幸になるだけだと思うんです」
「うん。明美さんの人生なんだから、誰も強制なんてすることは出来ないし、明美さんは明美さんのために生きていいと思う。今みたいに、きちんと冷静に話せば、ご両親もきっと分かってくれる。だから、そこから逃げちゃダメだ。ここでけじめをつけないと、明美さんも前に進めないだろうし」
「……はい」
「これからどうしていくか、ゆっくりで良いから考えて。決まったら、僕に相談してほしい」
「はい」
「大丈夫」
清水校長はそう言って自信に満ちた笑みを浮かべ、アクセルをゆっくりと踏み込んだ。信号は青に変わっていて、涙を拭いた後のアケミの視界は以前より少しくっきりとした輪郭を持って、そこに広がっていた。