失われたチョコレートの記憶

カテゴリー ハードな自作短篇小説

失われたチョコレート

許さない。絶対に許さない。

小潟(おがた)はあまりの怒りに身体の震えが止まらなかった。先ほど怒鳴ったときに舌を噛んだのか、口の中に鉄臭いの味が広がっている。

このチョコレートの為に、俺がどれだけの時間と労力を割いたと思っているのだ。

怯えた顔で自分を見上げる目の前の女が、まるで見知らぬもののように思えた。結婚記念日は明日だった。一日待てば、俺たちは最高の、まるで楽園の再来のごとく豊かで幸福な日を迎えられた筈だった。にもかかわらず、この年増女は醜く膨れた腹に潜む卑しい欲望にあっさりと流され、大切にしまっておいたチョコレートを食べてしまったのだ。全くもって信じられない。なぜこんな女と、俺は結婚したのだろうか。いや。小潟は思い直した。俺が結婚した女はこんな醜く太った、惨めな年増女ではなかった。これは一体、誰なのだ?

「とにかく、無くなってしまったものは、もう取り返しがつかない」

「あの……ごめんなさい。さっきから、何をそんなに怒っていらっしゃるの?」

「何を怒っているかだって? 本気で言っているのか」

「その、はい。……わたし、よくわからないんです。何か気に障るようなことをしたのかしら」

小潟は身体中の血が沸騰し、噴火口からマグマが爆煙と同時に吹き出すかのごとく怒鳴り散らした。

「チョコレートだ! チョコレート! お前、それ以外に何があるって言うんだ!」

女はびくりと身体を硬直させた。そんなことをしても小潟の激昂から逃れることは不可能だった。小潟は女の襟首を掴んで引っ張り上げた。汚物の詰まった肉袋のごとく、ずっしりと重い。ぶよぶよとした顎が目の前でブルリと震えた。顔のしわと毛穴に溜まったファンデーション、赤い口紅、豚のように小さな目を縁取るアイラインやボサボサの眉の上に書かれた眉墨は全て、見る者を笑わせるための滑稽な落書きにしか思えない。なんいう醜さだろう。

「あのチョコレートを食べて、何が悪いのよ」

女は恐怖に涙を浮かべながらヒステリックに叫んだ。そして掴まれていた手をもぎ取るように振り払い、一目散にドアから出て行った。逃がしてなるものか。小潟はほとんど殺意に近い感情を爆発させるようにして後を追った。目の前でエレベータが締まり、小潟は力任せにそれを蹴ってから階段を駆け下りた。

建物から出ると女はちょうどタクシーのドアに乗り込むところだった。

「待て! この豚女が」

タクシーは発進し、男は道路に仁王立ちになってあっという間に小さくなろうとする黄色い車体を睨みつけた。ちょうど反対車線を黒いタクシーがやってくるのを見つけ、目の前に飛び出した。黒いタクシーはけたたましい音を立てて急停車した。車内から運転手が驚愕の表情で小潟を見つめているのが目に入った。小潟は助手席のドアを開けて問答無用で乗り込んだ。

「あのタクシーを追いかけてくれ」

「ちょっと、困ります。まだ後ろのお客さんが」

禿げ上がった運転手がしどろもどろになりながら言った。後部座席に座っているサラリーマン風の男はまだ事態が呑み込めていないらしく呆然としている。

「降りろ」

小潟が命令すると、あまりの勢いに表情に怯えたのか、転び出るようにして車から降りた。

「早く追え!」

既に黄色のタクシーは小さく見えるのみで、遥か遠くだ。運転手はUターンした。

 

 

追憶

結局、黄色のタクシーは五分程度の追跡の後、見失ってしまった。小潟はしばらくタクシーでグルグルと周辺を見回ったが、タクシーも女も見つけることが出来なかった。

まぁいい。あいつの帰るところは一つしかないのだ。家で待っていれば絶対に戻ってくる。

小潟は帰宅し、やけに冷たく広々と感じる我が家で、電気を消して待った。傾いだ日差しがフローリングに長い光を伸ばし、やがて窓の外は真っ暗になった。そして空は白み始め、シトシトと女の泣くような雨が振った。

結婚記念日の朝だと言うのに、妻は家にいない。小潟は二十年ものの赤ワインを開けた。ハムとチーズ、キュウリを使って簡単なサンドイッチをこしらえて食べた。キュウリを噛んだ時のパリパリとした食感は、小潟の精神を落ち着かせた。安楽椅子にゆったりと座って小説を読み耽りながら、ワインを飲んだ。

ボトルを一本空け、いつの間にか眠っていた。小潟は立ち上がり、妻の部屋に入った。化粧台の上に並べられた香水の瓶、しおりが挟まったまま積まれた本、花柄のベッドシーツに頭の形にくぼんだ枕など、妻が出て行ったときのまま保存されていた。しかし、妻のにおいはとうに消え失せていた。掃除は隅々まで行き届いており、床には髪の毛一本落ちていない。

小潟は無人の部屋をまっすぐに横切り、化粧台の脇に置かれた写真立てを手に取った。美しい、永遠に変わらぬ女神のような妻の顔が、小潟と並んでこちらに微笑みかけている。

「昨日はあんなに怒って、すまなかった。俺が悪かった。許してくれ。ただ君と、あのチョコレートを食べたかっただけなんだ。あのチョコレートは俺が全国を廻って選び抜いたカカオマスから多大な手間と数千回に及ぶ失敗作の末に完成した、真に奇跡の一品だったんだ。それを、今日、この結婚記念日に、君にもう一度食べてもらいたかった。俺たちはチョコレートを通じて出会い、そして結ばれた。そのことを、君にもう一度思い出してもらいたかった。あの頃の君に戻って欲しかった。

君は店にやってきていきなり、何か特別なメニューを出して欲しいと言ったね。俺は戸惑った。その頃の俺はまだ一人前のパティシエとは言えなかった。見習いと言っても良い。だから、洋菓子を作ることよりも店のウエイターを務めたり客にコーヒーを淹れたりすることの方が多かった。でも主任に隠れて、こっそり菓子を作る練習をしていたんだ。俺は素材にこだわった。異常とも言えるほどに、素材に執着していたんだ。とりわけカカオマスにはほとんど執念めいたものを持っていた。カカオマスが違うと、出来上がるチョコレートの味は驚くほど変わるんだ。カカオマスに合わせて、コンチングの温度や練るスピードも変えなければならない。とにかく、あのチョコレートを完成させるために、俺は厖大な時間と労力を費やしたんだ。

初めて、あのチョコレートを食べたのが君だった。メニューにはない、特別なチョコレートだ。君はゆっくりと大切に味わい、すごく美味しい、と言ってくれた。俺はあの時ほど幸せだった瞬間はない。俺たちはそうして結びつけられた。だから、離ればなれになってしまった今でも、もう一度あのチョコレートさえあれば、また俺たちは元に戻れると思ったんだ」

 

 

小潟は止まぬ雨の中、傘を差してぶらぶらと近所の公園やスーパーの前を通り過ぎ、立ち止まり、またあても無く歩いた。日はすっかり落ち、結婚記念日もあと数時間で終わろうとしていた。花屋で一番高価な花束を買い、それを大きな紙袋に下げたまま、足の動くままに歩きつづけた。

ふと気が付くと、小潟は一つの墓石の前に佇んでいた。雨に濡れてつやつやと輝くような新しい墓石には「小潟家の墓」と彫られている。小潟は機械的に花を墓前に備え、手を合わせた。

無心に手を合わせていると、頭蓋骨の内側で何かが弾ける感覚があり、ピリリと指先が震えたかと思うと、唐突にあのチョコレートのことを思い出した。次に、妻が既に死んでいることを思い出した。

そうか、妻は死んだのだ。一年前のあの日、自殺したのだった。なぜ忘れていたのだろう。

 

 

愛の依り代

次の日、小潟が遅れて店に着くと、一昨日の豚女がウエイターに向かってキーキーと喚き立てているところだった。ドアの前に小潟の姿を確認すると、女はピタリと鳴き止み、あからさまに恐怖を顔面に貼付けた。

小潟は女を刺激しないよう、静かに、穏やかな表情で近づき、頭を下げた。

「先日は、申し訳ありませんでした」

腰を折ったままの姿勢でじっとしていると、女がヒステリックに叫んだ。

「一体、どういうつもりだったんですの? あんな風にいきなり客に暴力をふるうなんて、訴えられてもおかしくありませんよ」

「大変、申し訳ありませんでした」ウエイターが答えた。「僕が間違えて、シェフの大切なチョコレートをお出ししてしまったのがいけないんです。それに、シェフは去年奥様を亡くされたばかりで、まだ時々、女性のお客様を奥様と思い込むことがあって」

「知らないわよそんなこと!」女は怒り狂っていた。「あれだけのことをして、謝って済むと思っているの? 悪いと思っているなら、誠意を示しなさいなっ」

小潟はため息を呑み込んだ。

「おいくら、お支払いすればよろしいでしょうか」

「お、お金が欲しくて言ってるんじゃないのよっ」女は錯乱状態にあるのか、小潟につかみかかった。

「では、どうすれば?」

女は「もっとちゃんと謝って!」と言ったが、小潟にはもっとちゃんと謝るとはどういう謝り方が適切なのか見当もつかなかった。女は突然、「十万円よ」と言った。

一体、どうしてこんな卑しい豚女を妻だなんて思い込んだのだろう。しかし、やってしまったものは仕方がない。小潟は小切手を切り、女に手渡した。女はむしゃぶりつくようにそれをもぎ取ると、足を踏みならして店から出て行った。

「シェフ、すみません。僕のせいで」

「いや、いいんだ。元はと言えば俺に原因がある。妻が自殺したのも、それを受け入れられなかったのも、全て俺だ」

「もう、あのチョコレートを作るのはやめてください」

「なぜ?」

「シェフはチョコレートにのめり込むあまり、奥様をないがしろにしました。結果、奥様は自殺された。それでもまだ、シェフがあのチョコレートを作り続けるのでは、奥様も浮かばれませんし、シェフ自身も辛い筈です。もう自分を責めるのはやめて下さい」

「俺があのチョコレートに固執するのは、妻を愛するが故だ。死んでもそれは変わらない。妻はそういう俺と結婚し、そして愛を見失って死んだ。しかし、チョコレートと共に、たしかに愛は存在した。あのチョコレートは愛の依り代であり、愛の記憶だ」

しかし、チョコレートは失われてしまった。

失われたチョコレートの記憶” への3件のフィードバック

  1. こんばんは矢戸です。白戸さんのブログを周回しています。

    今回は総評がない代わりに、今までに調査した短編小説作成のメソッドを利用して書き出してみます。まだ曖昧な理論ですが、参考になれば幸いです。

    短編メソッド:
    まず一言で状況が分かるような一文を描写・説明をする。これを「設定の一文」をAと呼びます。
    次にオチを決めます。この「オチの一文」をZとします。この部分に「救い」を入れてもいい。
    次に設定Aから落ちZまでの過程には「問題の発生」と「問題の解決」の2つあります。起承転結における承と転に当たります。
    「問題の発生」の一文をB、「問題の解決」の一文をCとします。

    短編小説ではまず、これらの一文「設定の一文A」と「オチの一文Z」、「問題発生の一文B」、「問題解決の一文C」を書きます。この理論を白戸さんの小説に当てはめてみます。
    「設定の一文A」:シェフの小潟は、デブ女に怒った。デブ女が小潟の大切にしているチョコレートを食べたからだ。
    「オチの一文Z」:しかしチョコレートは失われた。小潟の愛は失われたのだ。
    「問題発生の一文B」:そうか、妻は死んだのだ。一年前のあの日、自殺したのだった。なぜ忘れていたのだろう。
    「問題解決の一文C」:「もう、あのチョコレートを作るのをやめて下さい」

    次にこのA,B,C,Zをつなげます。このつなげる間をそれぞれ、a(AB間)、b(BC間)、c(CZ間)、z(Zから救い)を描写していきます。白戸さんのこの小説には、aの部分に追憶が入っている為に冗長で、zでの救いがない。この過程の部分は自由に書きます。この自由な部分で文体や描写、会話で物語を料理します。

    まとめます。
    (A)シェフの小潟は、デブ女に怒った。デブ女が小潟の大切にしているチョコレートを食べたからだ。
    ↓(a)タクシーで追って、小潟の「追憶」(回想部分は個人的に嫌いです。冗長的で物語を複雑にし、読者を置き去りにするからです)。
    (B)そうか、妻は死んだのだ。一年前のあの日、自殺したのだった。なぜ忘れていたのだろう。
    ↓(b)小潟は幻想を見ていた。客の女を妻と見ていたのだ。客の女は、小潟に怒鳴り散らす。
    (C)「もう、あのチョコレートを作るのをやめて下さい」
    ↓(c)シェフとウェイターの会話。
    (Z)しかしチョコレートは失われた。

  2. 蛇足です。

    追加(z):
    Zの先を書いてみます。このまま終わっても良いのですが、小潟は救われないし(救う気がないかもしれませんが)、読後感が気持ちよくないです。あくまでも蛇足。

    ***
    しかしチョコレートは失われた。小潟の愛は失われたのだ。

    小潟があのチョコレートを作らなくなって、3ヶ月が経った。小潟はチョコレートの事で、死んだ妻を思い出す事はなくなった。妻の思い出は、小潟の記憶の中へと埋もれた。小潟は仕事が終わり、帰宅しようとレストランから出ようとした。
    「小潟さん」
    「どうした?」
    ウェイターは低いトーンで、小潟に話しかけた。

    「最近、調子いいですね」
    「そうかな」
    「ええ。チョコレートを作らなくなって良かったじゃないですか?」
    「……そうかもな。じゃあ、また明日」
    「お疲れ様です」
    小潟は家に帰る。ウェイターの言葉が耳に残る。

    小潟は帰宅後、妻の部屋に入った。妻の部屋を死んだ時のままでいるのを、あのウェイターが見たら意見を言うだろう。あいつはみんなが思っている以上に、厚かましい。同僚だから言わない理由ではなく、小潟は妻のいなくなった日から燃え尽きているからだ。

    小潟は冷蔵庫からビールを取り出し、缶を開けた。気の抜けた音がする。小潟はビールを一口飲む。苦い。疲れているせいか、酔いが早く回った。小潟はまた、妻の部屋に戻る。妻の写真を近くで見ようと、化粧台に近づいた。

    小潟はつまずいて、ビールを化粧台にこぼした。やってしまった。「ああ」と小潟は雑巾を持ってきて、ビールを拭いた。中にまで染み込んでしまっただろうか。今まで、保存していたのに……こんな簡単に台無しにしてしまうなんて。小潟は化粧台の引出しを開けた。手紙が入っていた。

    「……手紙?」

    小潟は酔っているせいか、躊躇なく手紙を開けた。手紙には『あなたへ』と書いてあった。小潟の酔いは醒めた。手紙を読み始める。

    『あなたへ
    この手紙を読んでいる頃、私は死んでいると思います。あなたを置いていくのを許してほしい訳ではありません。ただ理解してほしいだけです。

    私と出会った頃を覚えていますか。私はあなたのレストランで「特別なメニューを出して欲しい」と言いました。あの時の私は、稼いだお金を全て使い切って、死ぬつもりでした。でもあなたの作ったチョコは美味しかった。それがいけなかった。私は死にたかったのに、なぜか、あなたのチョコが私を死なせなかった。あなたがいけないです。それで、もう一度、作ってと言っても、あなたは作れない、と言った。ひどい仕打ちだと思いました。

    だから私は、あなたにもう一度、あの奇跡のチョコレートを作ってもらいたかった。でなければ、私は生き地獄を味わなければならない。あなたはチョコを作り続け、とうとうあの時と同じチョコレートを作ってくれました。長くなりましたが、完成したチョコレートを食べて、私は死のうとした時の気持ちを思い出しました。

    私はあなたを利用しました。死ぬ為に利用しました。なぜか。死にたかったからです。それだけです。

    あなたは私を恨むでしょう。でも覚えていて下さい。あなたの作ったチョコレートは本物です。私の記憶に語り掛けたあのチョコレートは、本当にすごかった。あなたは私の誇りです。

    この手紙を読んだら、捨てて下さい。そして私を忘れて、あなたの人生を歩んで下さい。利用してごめんなさい。ありがとう。さようなら』

    小潟は泣いた。もう泣いた。止まらなかった。それから疲れて眠った。

    小潟はレストランを休みにして、妻の部屋を整理した。妻の物を全て捨てた。代わりに、キッチンにはチョコレートの材料が置いてあった。小潟は妻を失い、チョコレートを失った。そして妻への未練を失った。小潟はもう何も失う事はない。

    小潟はチョコレートを作り始めた。

  3. 妻が自殺した理由が明らかになりましたね!
    小潟も次の一歩を踏み出した、、、
    お後がよろしいようで!ありがとうございます。

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