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もしも息を止めている間だけ透明になれたら

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もしも息を止めている間だけ透明になれたとして、君なら何をするだろうか。

魂心Tシャツ ステルスモード(LサイズTシャツ黒x文字白)

初日

さっきまで見ていたすさまじい悪夢の断片は、目覚ましのアラーム音が一回、二回と鳴る度に失われていった。黒崎は掛け布団を乱暴にはねのけてスマートフォンのアラームを止めた。八時十分。アラームの設定時刻は入社した頃から十分ずつ後ろ倒しになっており、今では起きて二十分以内に家を出なければ、山の手線内回り、八時三十四分の五反田発の電車に間に合わない。

それは即ち始業時刻に間に合わないことを意味しており、始業時間に間に合わないということはプロジェクトリーダーの笠井に一日中ネチネチと責められた上に次のボーナスが減額され昇格も遠のくということだ。病的なまでに細った頬と神経質そうな薄い唇、線のような細い目。笠井の顔が浮かび、黒崎は深いため息をついた。どうせ出社したら見なければならない顔だが、暖かく平和なベッドの中にまで上司との確執を持ち込みたくはなかった。

夢には母が出てきた。

黒崎は横になったまま天井を見つめて考えた。母が出てきたということだけはおぼろげにわかった。母が登場した時点で良い夢でないことは確かだが、さきほどの悪夢はなにか黒崎にとって重要な意味合いを含む内容だった気がした。全てが消え去る前に、思い出しておきたい。しかしもはや夢の記憶は意識の手の届かないところまで遠ざかっていた。

ダメだ、思い出せない。

黒崎は重い足をずらすようにして裸足を冷たいフローリングにおろし、勢いを付けて上半身を起こした。途端に、拒絶反応を起こしたかのように頭がズキズキと痛み始めた。キリかなにかで後ろから脳細胞をグリグリとかき回されている気分だ。

黒崎はゆらりと立ち上がって洗面所へ向かった。

「脳め、無駄な抵抗はやめろ」黒崎はぶつぶつと声に出して言った。「会社に行きたくないからって、頭痛を起こさせているんだろう? そんなことをしてもオレは会社に行く。いまは休むわけにはいかない。会社のみんなも徹夜続きで頑張ってるのに、自分だけたかが頭痛で休むなんて出来ない。頭痛は病気じゃない。風邪も病気じゃない。薬を飲めば症状が治まるものは、体調不良の言い訳にはならない。オレは会社に行く。オレは今日も会社に行くぞ」

洗面所で一通りの身支度を済ませ、リビングで着替えながらテレビのニュースを聞く共なしに聞いていた。うんざりするくらい陽気な女子アナが天気予報を告げ、別の女子アナがニュース原稿を読み上げ始めた。

「昨夜十一時頃、町田市のコンビニで女性店員が襲われ、現金を奪われる事件が起きました。女性店員は軽症を負いましたが、命に別状はないようです」

「またアレですか。防犯カメラに映ってないってやつですか」コメンテーターの中年男が言った。

「さぁ、どうでしょう」と女子アナ。困ったように首を傾げている。馬鹿に見えても可愛く見えれば満足なのかもしれない。

「最近、なんだか物騒ですねぇ。泥棒やら傷害事件やらが、立て続けじゃないですか」コメンテーターが言った。黒崎は冷蔵庫を開け、コップに牛乳を注いで一気に飲んだ。

「本当ですね。みなさんも、こうした事件には充分注意して下さい」女子アナがわざとらしい深刻そうな声で言った。

黒崎はネクタイをしぼりコップを水で洗った。そんなもん、注意したって防ぎようがないだろう、と冷めた気持ちでテレビの電源を落とした。時刻は八時二十七分。

テカりが出てきたリクルートスーツの上を着て、黒のコートを羽織り、埃で汚れ始めた革靴をつっかけるようにして玄関から出た。

×

五反田駅は着膨れたサラリーマンたちでごった返していた。自分もその一群にするりと溶け込み、押し流されるようにしてホームにあがった。目の前を歩いているのはよれた肌色のコートを来て外側ばかりがすり減った靴を履いた猫背の男だった。短く刈り込んだ頭には白いものが混じっている。足を引きずるようにして改札口を抜け、ベルトコンベアで運ばれる菓子パンみたいにエスカレーターで上に運ばれていった。黒崎はその曲がった背中を下から眺めながら自分の十年後の姿を連想し、目をそらすためにポケットからスマーホフォンを取り出した。

ホームは電車を待つために立って待つスペースがほとんど残されていなかった。どうやら遅延が発生しているらしい。あと数センチで線路に落ちるギリギリの幅を通り抜け、自販機の隣に埃が溜まるみたいに留まった。

すでに立ち止まるためのスペースもなく、後ろからやって来た小太りの背の低い女が険しい顔をして黒崎をホームの中央に押しやった。線路の側にいたら押しくらまんじゅうみたいに外に押し出されてしまうかもしれない。

「えー、現在、品川駅でお客様がホームに落下する事故が発生した影響で、上下線ともに運転を見合わせております。お急ぎのところご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございません」

機械のように事務的な口調で、駅員がアナウンスを繰り返した。

「そんな奴、轢き殺してさっさと電車動かせよ」小太り女が苛立たしげに呟いた。

ホームに溢れ返ったサラリーマンたちの数から考えて、すでに十五分以上は電車が来ていないのだろう。これではいますぐ運転再開したとしても当分は乗り込めないどころか、電車に触れることすらできないだろう。こうしている間にもエスカレーターは休みなくサラリーマンを運んでくる。もはや逆流して改札まで戻ることすら出来ない。エスカレーターを止めないのは、駅員たちがサラリーマンをコインに見立ててホームから溢れさせて落ちた人数でポイントを競うつもりなのかもしれなかった。

四方から押された背の低い女に足を踏まれ、黒崎は舌打ちした。女は下から睨みつけてきたが構わずスマートフォンを取り出す。落とさないよう注意深く片手で持ったまま親指でディスプレイを操作し、笠井宛に電車遅延のため遅刻する旨のメールを書き、チームのメーリングリストをCCに入れて送信した。似たようなメールが既に三件、届いていた。山の手線の遅延がもたらす経済損失について思いを巡らせていると、再びアナウンスが入った。

「ただいま、新宿行きの電車が品川駅を発車致しました。一番線の電車到着まで今しばらくお待ちください。お急ぎのところご迷惑をおかけし、誠に申し訳ありません」

待つこと十分弱、電車の到着を知らせる音楽が流れ、続いて悲しい顔を満載した電車が到着した。先頭車両から既にドアに人が張り付いており、とても誰かが乗り込む余裕はなさそうだった。ドアが開くと突き飛ばされるようにして中から人が雪崩出てきた。しかしホームにも余剰スペースはなく、駅員が「危険なので押さないで下さい」と苛立たしげにアナウンスを流した。安いフルーツガムや整髪料、加齢臭、女のキツい香水などが混じりあった空気に密着する小太り女の体温、玉になったマフラーの繊維などを見ているうちに、黒崎は気分が悪くなってきた。今にもえずきそうだった。

ホームの人口密度はほとんど変わらないまま、電車は発車していった。立て続けに次の電車が来た。今度はまだ幾分か余裕がありそうに見えた。線路側に立っていた人たちが我先にとドアに向かって突入し、前の人間をギュウギュウと押して電車の中に入っていった。駅員がはみ出た鞄やら人間やらを白い手袋をした手で無理矢理押し込み、ドアが閉まると、ようやく黒崎は身体のどこも他人に触れずに立つことが出来るようになった。乗車口のマークがある立ち位置にキチンと足を乗せる。行列の先頭だ。隣にはふてくされたような顔をして先ほど足を踏んできた背の低い女が立っている。

次は間違いなく乗れるだろう、とスマートフォンを取り出して時刻を確認した。九時五分。すでに始業時刻の九時を過ぎている。三十分ほどの遅刻だが、山の手線の人身事故なら笠井もそれほど文句は言わないだろう。

次の電車がやってくる音楽が流れた。線路の先に先頭車両が近づいてきた。と、その時、すぐ横で「キャア」と短い悲鳴があがったかと思うと、小太りの女がつんのめるようにして前に飛び出し、そのまま線路に落ちた。そしてその直後に車両が突風とともに通り過ぎ、けたたましいブレーキ音と共にゆっくりと停車した。

何が起きたのか全くわからない。女が立っていた場所の後ろを振り返ると、あごの長い女が目を丸くして見返してきた。こいつが押したのだろうか。黒崎は信じられない気持ちでその女を数秒見てからパッと前に向き直った。しかし、あご女も驚いている様子だった。それに両手でバッグを持っていた。それより、また電車はしばらく動かないのではないだろうか。すぐ側で電車のドア窓を鼻息で曇らせているサラリーマンが憎々しげに黒崎を睨みつけてきた。駅に着いたのにドアが開かないことに怒りを募らせているのだろう。

駅員たちがやって来て、黒崎から少し離れた場所で先頭車両の運転席から降りてきた車掌と話したり女が作ったであろう血痕やらを覗き込んだ。

そして手慣れた様子でホームの乗客たちを別の場所に誘導し、目隠し様のブルーシートで現場を覆い始めた。

「ええ、ただいま、当駅で人身事故が発生致しました。運転再開まで、しばらくお待ちください」

せわしないアナウンスが流れた。黒崎はため息を付いて列の先頭から離れた。この調子では女の遺体を拾い集めたり掃除したり警察が来たりで当分動くまい。みながブルーシートの隙間をスマートフォンで撮影しているうちに、タクシー乗り場に急ぐことにした。もたもたしていると、今度はタクシー乗り場に行列ができてしまう。

×

夕方の進捗確認ミーティングを終え、黒崎はトイレで顔を洗った。全く、ひどい一日だ。朝の電車遅延に始まり、自腹を切ってタクシーで出勤したにもかかわらずチーム内では最下位となったため、結局笠井に文句を言われるはめになった。しかも午前中はタイミング悪く先にリリースした機能でシステム障害が発生したため緊急対応に追われ、本日締切りの黒崎が担当している赤伝出力機能のコーディングは全くの手つかず状態だった。進捗確認ミーティングでは当然のごとくスケジュール遅延について婉曲的にネチネチと責められた。

ポタポタと水滴の垂れる顔をハンカチで拭い、洗面台に手を付いて鏡を睨みつけた。目の下に黒っぽいクマを浮かべた乾燥肌の貧相な男がこちらを見返してくる。長時間パソコンに向き合っているためか、目が赤く血走っていた。突然、思い出したように頭がズキズキと痛み出した。黒崎はじっと錆び付いた排水溝を見ながら顔をしかめ、頭痛が引くのを待った。気分が悪い。吐きそうだった。頭痛も治まる気配がない。

ヨロヨロと壁伝いに個室トイレの一番奥に入り、ズボンをはいたまま便器に座って頭を抱え込んだ。目を瞑り、全ての思考をシャットアウトした。耳を押さえるようにして強く当てた掌から聞こえる鼓動をカウントした。六十七のところで誰かが小便器の水を流す音が聞こえた。

三百まで数えたところで身体を起こした。頭痛は多少マシになっていた。

個室から出ると、洗面台に先ほどまではなかった腕時計が置かれていた。一目みて、黒崎はそれが誰のものかがわかった。笠井がいつも自慢しているロレックスだ。四十五歳でいまだ独身の笠井は、よほど金が余っているのか毎年、一月の最初の出社日には新しいロレックスをはめてきた。これは今年のものだ。もう二週間もすればお役御免となるはずだったが、今のプロジェクトの遅延状況では今年の年末年始に休暇があるのかは怪しいところだ。

とにかく、それは笠井のロレックスだ。社内のエンジニアにこれほど趣味の悪い無駄遣いをする奴はいない。

黒崎はそれをジッと見つめた。

これ、質屋に持ってったら数万円にはなるんじゃないか。

文字盤の上を、驚くべき折り目正しさで秒針が動いていた。黒崎はそれを手に持った。ずっしりと重い。腕に巻いてみた。

うん、悪くない。

その時、速い足音が一つ、廊下から近づいてきた。黒崎は慌てて腕時計を外そうとしたが、指先がふるえてうまく外せない。黒崎は息をのんだ。頭痛が酷くなり、自分の周囲に薄い膜が貼られたような感覚になった。水中に潜った時のように目がかすみ、耳が遠くなった。

入り口に、笠井が姿を現した。

すぐに見とがめられるかと思ったら、笠井は黒崎など目に入らないかのように、何もない洗面台に視線を往復させながら近づいてきた。黒崎はそろそろと後ずさって笠井に場所を譲った。笠井はタイルばりの床、それから個室を一つ一つ覗いて、もう一度洗面台に手を付いた。

普通は黒崎を疑うか、それでなくとも時計を見ていないか聞くのではなかろうか。黒崎を無視するという新しく思いついたイビリだろうか。にしても、一対一の状況でやるなんて笠井らしくなかった。メンバー全員の前でやる方が効率的に黒崎に恥をかかせ屈辱を与えることが出来る。

鏡にはこの世の全ての悲しみを背負ったかのごとく、笠井が表情をゆがめていた。黒崎は、鏡に違和感を覚えた。首を傾げていると、笠井は肩を落としたまま危うい足取りでトイレから出ていった。

黒崎は無意識の内に止めていた息を吐いた。すうっと頭痛が引き、先ほどまでの奇妙な膜の感覚も無くなった。

よくわからないが、助かった。

ずっしりとした腕時計を外して手に持った。それからストン、とスーツの右ポケットに落とした。一目見ただけではポケットのふくらみには気付かない。鏡で客観的姿勢で確認した。

そこでまた違和感を感じた。

次に違和感の正体に気が付いた。

さっき鏡を見ていた時、自分は映っていなかった。黒崎はつい先ほどの笠井を後ろから観察していた状況を思い返し、記憶を一つ一つ検証していった。間違いない。さっきまで自分は鏡に映っていなかった。

しかし、一歩も動いていないのに今はきちんと映っている。

自由を手にした時

黒崎は口元に満足げな笑みを浮かべ、ネオン街に生息する金魚のようにゆったりと歩いた。今なら何でもできる気がした。いや、現に、黒崎は他人が真似できない能力を自分の中に発見していた。

黒崎は前を歩いているミニスカートの二人組の女に狙いを定めた。

モコモコとしたジャケットを羽織っているくせに下半身はぱつぱつのミニスカートには下着の線がくっきりと浮き出ており、その下から裸の太ももが突き出していた。貞操観念の薄さがそのまま服装に表れているようだった。

そろそろと距離をつめ、黒崎は息を大きく吸い込み、止めた。鋭い頭痛と膜のような感覚が訪れた。

黒崎は女たちのミニスカートをわしづかみにし、勢いよくずり下げた。ギャアと色気のない悲鳴をあげ、女たちはとっさに尻に手を当てた。一人は下着ごと脱げたため白い尻が丸出しになっている。もう一人も尻が出ているのは同じだったが、勢いがつきすぎたのか、スカートが破れていた。黒崎はニタニタと笑い、女たちが大きな尻につっかえるスカートを無理矢理おし上げる様子を眺めた。

通行人たちはチラチラと目をやりながら避けるようにして通り過ぎていく。中にはスマートフォンで撮影している輩までいた。

いい気分だった。

黒崎は注目の的となった女たちからそっと離れ、人ごみの中ですうっと息を吐いた。頭痛と膜の感覚が消えた。

×

透明になれるようになってから、ちょうど一ヵ月が過ぎた。子供を蹴飛ばす、老人の禿げ頭を叩く、乳房の形を観察しながら女湯をゆったりと闊歩する、コンビニでカップ酒とエロ本を万引きする。黒崎は思いた端から躊躇なく、それらの愚行を実行していった。卑小で下衆なこれらの行為は、他者を踏みにじる勝利の陶酔をもたらし、黒崎の摩耗した人生に潤いをもたらした。

黒崎はベッドで寝返りを打った。

近頃、頭痛が長引くようになっていた。透明化している最中でなくても、ズキズキと頭の芯が痛んだ。頭痛薬は効かず、医師には疲れがたまったのだろうと適当なことを言われた。

そして、頭痛に加え、悪夢を見る頻度が明らかに増えているのも黒崎を悩ませていた。悪夢には母親が登場する。しかしその内容は決まって覚えていないのだった。

この能力はあまり使いすぎてはいけないのかもしれない。黒崎は不安から目を逸らすようにギュッと瞼を閉じ、自分の呼吸音に耳を澄ませた。

翌朝、ビクリと痙攣した自分の身体の揺れで目が覚めた。アラーム音で起こされなかった朝はどれくらいぶりだろう。黒崎は目を擦りながら身体を起こした。先ほどまでの鮮明な悪夢は、やはりどうしても思い出すことは出来なかった。

ふと、窓の外がやたらと明るいことに気が付いた。ハッとして時計を見ると、時刻は十時二十分となっていた。黒崎はサッと青ざめ、ベッドから飛び出した。スマートフォンにはメールと会社からの電話着信、アラームがキチンと起動したことを知らせる通知がずらずらと並んでいる。

黒崎は無意識に眉間にしわを寄せながら、メールアプリを起動した。いまさら、体調不良という訳にもいかない。うまい言い訳も思いつかず、結局は素直に、寝坊したため十一時には会社に到着する旨を記載し、ご迷惑をおかけし申し訳ございませんという言葉で締めくくって送信した。送信した直後、どうせ遅刻で怒られることは確定しているのだから、もっとゆっくりしてからメールを送れば良かったと後悔した。

オフィスのドアを開けたのは十一時三分だった。チームメンバーはみなディスプレイにかじりつくように仕事をしていて、誰も黒崎が入室したことに気付いてすらいない様子だった。カチャカチャというキーボード音と、遠くから聞こえる着信音、ヒソヒソとした話し声が聞こえるだけだ。リーダーらしく一番奥の席で仕事をしている笠原も、こちらを見ようともしなかった。

黒崎は足音を立てないようにそっと自席に座り、パソコンを起動し、何事もなかったかのように仕事を始めることにした。忘れくれているならそれが一番良い。しかし、三分と経たずに笠原が立ち上がり、こっちに歩いてくるのを視界の端で捉え、黒崎は暗澹とした気持ちになった。

「遅刻しておいて、ひと言もなしとはどういうつもりなんだ」

腕を組んで仁王立ちする笠原は、神経質そうに眉を痙攣させていた。

「すみません。お仕事に集中されているようだったので、休憩時間になったらお声掛けしようと思ったんです」

「遅刻して出社したら、まずはすみませんとひと言謝りに来るのが当然だろうっ」

笠原が唐突に大声で言った。

「すみません」黒崎は消え入るような声で言って頭を下げた。

「全く、お前から俺の席に来るのが筋だろう! なんで俺が遅刻したお前の席まで出向いて説教しなけりゃいけないんだ」

「すみません」

どんどん身体を小さくする。周囲からのタイプ音は止まないが、メンバーの意識が怒られている自分に向けられていることを感じ取れた。

「大体、社会人になって寝坊だなんてどうなっているんだ。まったく常識がないにも程がある。いつまでも学生気分でチャラチャラしてもらっては困る」

「すみません」

今直ぐにでも透明になりたかったが、まさか説教中にスウッと消えるわけにもいかない。

「寝坊以外でも、お前のそういうだらしのない部分は仕事に垣間見える。引かれたスケジュール通りに成果物を上げられないのなら、事前に報告すべきだろう。なぜいつも手遅れになってからすみません間に合いませんでした、今日は残業させて下さいと言いにくる? ちょっと頭を使えば間に合わなそうだと事前にわかるだろう。もしかして残業手当をもらいたくてわざとやっているのか? まったく無能のくせに意地汚い。お前みたいな使えない部下が一人いるだけで、チームの足並みが乱れるんだ。一人遅れるだけでお前の担当機能の後続処理の機能のテストが遅れる。その機能のそのまた後続のテストが遅れる。そうやってどんどんスケジュールから遅れていくんだ。最終的には俺が責任を取らされる。やってられないよ、まったく。おい、聞いてんのかっ」

パチン、と間抜けな音と共に俯いている黒崎の後頭部に軽い衝撃が走った。頭を叩かれたのだとわかり、カーッと血が上った。キッと顔を上げ、笠原を睨みつけた。

「それくらいのイレギュラーは、もともと納期に組み込んでおくべきじゃないですか。新人がちょっと遅刻したくらいでガタガタになるスケジュールの方がおかしいでしょう。小学生だってそんなスケジューリングしませんよ。あなたこそ、仮にもチームリーダーなら適切なバッファを見込んで顧客と納期交渉すべきじゃないんですか。見て下さいよ、みんなの顔を。残業続きで休日出勤までさせて。こんな風にチーム全員の前で私に八つ当たりしてストレス解消している暇があったら、人数増やすなり納期伸ばすなり機能を削るなり対策を考えて下さい。笠原さんがどれだけ優秀なプログラマなのか知りませんが、マネジメント能力は最低ですよ。あなたこそ、リーダーとしては無能なんじゃないですか」

いつの間にか、タイプ音は止んでいた。オーディエンスは黒崎たちのやり取りに見入っていた。

笠原は驚きと怒りで青ざめた顔で、しばらく黙っていた。何を言われたのか、その神経質で精密な脳が処理しているのかもしれない。長考の末にはじき出した笠原の結論はこうだった。

「出て行け!」

わなわなと震える指先を先ほどくぐってきたばかりのドアに向け、笠原は叫んだ。

黒崎は肩をすくめ、パソコンの電源を落として鞄を持ち、一度も振り返らずにオフィスを後にした。

気分は爽快だった。

まさか、自分が笠原に言い返せるなんて、信じられなかった。家でも学校でも、黒崎は誰に何をされてもどんな屈辱を受けてもやり返すことが出来なかった。常にやられっ放しで、自分の姿が消えてしまえば良いのにと何度も妄想していた。

会社のことなどどうでもよかった。オレはまだ若い。透明にだってなれる。金なんてどうにでもなる。仕事だって、好きなことをやれば良いんだ。もうこんなブラック企業で奴隷みたいに働く必要はない。

黒崎は周囲にはばかることなく、鼻歌を口ずさみながら明るい池袋の街を歩いた。

×

最終出社日までの二週間を、黒崎は透明化しては同僚たちの財布から札を抜き取って過ごした。三日目から社内で噂になり、一週間すると朝礼で正式に注意勧告が行われた。犯人、または犯人に心当たりのある人間は名乗り出るようにと、社長が厳しい口調で告げた。

黒崎はやりかけの仕事の引き継ぎや健康保険の切り替え、失業保険の受け取りについてなどの細々したやり取りを人事部の派遣社員と行い、同僚たちの財布から金の盗んだ。

そして終業時刻の夕方五時ピッタリになると、恨めしそうな同僚たちの視線を背に感じながらオフィスを後にするという日々を、心穏やかに過ごした。

同僚たちからせしめた金は全部で三十六万八千円になった。千円札が多いので結構なボリュームに見える。黒崎は最終出社日の前日、透明化してこっそりとその金を笠原のデスクの一番下の引き出しに無造作に詰め込んだ。笠原は神経質な人間らしく、デスクを飾ることもなければ紙の資料の束を引き出しに溜め込むこともなかった。笠原がデスクの引き出しを開けている姿など見たことがないと思っていたが、こうも空っぽだとは予想外だった。しかし、これなら笠原が事前に金に気付くこともない。黒崎にとっては好都合だった。

最終出社日、黒崎は紙袋に日本酒の大瓶を入れて出社した。そして、同僚に簡単に挨拶を済ませ、最後に日本酒を手に笠原の席に行った。

黒崎に気付いているはずの笠原は、ディスプレイに顔を向けたままメールをタイプする手を止めもしなかった。

「あの」

「なんだ」

「これを受け取っていただけませんか」

笠原はようやくキーボードから手を離し、視線を向けた。

「……どういうつもりだ」

笠原は怪訝そうに日本酒の大瓶を受け取った。キチンと桐の箱に入った高級品だ。

「笠原さんには、たくさんご迷惑をおかけしてしまいました。それに、率直に私の悪いところを指摘し、ご指導して下さいました。本当は、とても感謝しているんです。だから、最後にお礼をさせていただきたいのです」

笠原は眉を寄せたまま日本酒と黒崎を見比べ、ふんと鼻を鳴らした。そして「路頭に迷わないようにな」とだけ言った。

そしてデスクの一番下の引き出しに手をかけた。日本酒の大きさからして、そこ以外に入りそうな引き出しはない。黒崎はにやりと嗤った。神経質な笠原がデスクに日本酒を出しっ放しにして仕事する訳がない。また、飲み物を床に置くことも有り得なかった。

引き出しには大量の紙幣が乱雑に入っていた。

それを目にした笠原はビクリと手を止め、それからよれた一万円札を一枚、つまみ上げた。

「笠原さん、あなたまさか……」

黒崎はわざと大声を出した。

笠原はハッとして顔を上げ、「ち、違う! 俺は知らない!」と慌てふためいて立ち上がった。あまりに慌てたために椅子が派手な音を立てて倒れ、周囲の視線は一斉に笠原に集まった。

たまたま後ろを通り過ぎようとした女子社員が笠原の引き出しを見て足を止め、それから小走りで仲間の元へ走っていった。他の人間もチラチラとその引き出しを覗き見た。動転した笠原がようやく引き出しを閉めた頃には、五人近くの人間が紙幣を目撃していた。黒崎は何があったのか尋ねてくる同僚に自分が見たものを耳打ちし、集まり始めた人垣に身を潜り込ませ、口元の笑みを濃くしてオフィスを後にした。

×

その日、悪夢の断片を思い出すことに成功した。

母親の顔をした巨大な虎に似た肉食獣に追われ、小学校の廊下を走るというものだった。教室のドアからは見知った顔たちが無表情で黒崎が追われるのを目で追っていた。

思い出せるのはそれだけだったが、それだけで充分に悪夢だった。久しぶりに見た母親の顔は険しく、そして醜かった。

黒崎はベッドに寝転がったまま、タバコに火をつけた。

一服吸い込むと、ずいぶん心が楽になった。掌には子供の頃に母に付けられた根性焼きの痕がケロイド状になって残っている。治りかけたタイミングでまたタバコを押し付けられるということを繰り返したため、当時はいつもぐずぐずに炎症を起こしてただれ、黒崎に四六時中ズクズクとした重い痛みを与えつづけた。食事が満足に与えられなかったこともあり、炎症の治りも悪く、またよく熱を出した。

タバコを指に挟んだまま、そのつるつると白くなった痕をぼんやりと見つめた。

高校を卒業したその日、こっそりバイトして貯めた五万円で服と新幹線の切符を買い、学生服と卒業アルバムを学生鞄に詰めて駅のゴミ箱に捨て、新幹線に飛び乗った。

以来、母親とは会っていない。

今、黒崎は自由を手にしていた。パソコンを使ってプログラミングする能力もあり、小額ながらも貯金もある。ワンルーム賃貸だが一度も家賃を延滞したことはないし、税金だって払える。そして、息を止めている間、透明になることだってできる。

少しの間、掌のケロイドを見つめて考えた後、黒崎は母親を殺すことを決めた。

×

品川駅から新幹線で一時間二十分。永遠に近づくことはないと思っていた五年ぶりの実家は、あっけないほど近くにあった。

ボロアパートは記憶にあるよりもよりボロくなっていた。茶色い雨だれがひび割れた白い壁を汚らしく伝い、一階には壊れた自転車や段ボール、粗大ゴミ然とした旧型の洗濯機が放置されていた。ネームプレートなんて上等なものはどの部屋にも付いていなかったが、台所の曇りガラスの向こうにピンクの象のぬいぐるみのシルエットがくっきり見えたことから、黒崎はまだそこに母が住んでいることを確信した。

午前八時。母がまだあのうらぶれたスーパーのレジ係をして生活しているなら、そろそろ出てくるはずだ。

アパートに面した道路沿いのコンビニで缶コーヒーを買い、駐車場の車輪止めに腰をおろして母が姿を現すのを待った。念のため帽子を目深に被っていたが、果たしてそんな必要はなかったかもしれない。わざわざ帽子など被らなくても、向こうは黒崎のことなどすっかり忘れているかもしれない。そう考えると、なんだか急にバカらしくなってきた。

黒崎としても、実のところ母親の顔がわかるのか、すこし自信がなかった。見ればおそらくピンと来るはずだが、いま缶コーヒーを飲みながら思い出そうとしても、もやもやと捉えどころのない像が浮かぶばかりだった。考えてみれば、正面からハッキリと顔を見た記憶がない。遠くから険しい表情の横顔を見つけると、恐ろしくて目を背けていたからだ。

冷たいブラックコーヒーを一口飲むと、頭痛が少し和らいだ。

スマートフォンを見ると、時刻は午前八時二十分だった。

あと十分待って現れなかったら、アパートに火をつけて帰ろう。そして、過去はきれいさっぱり忘れて生きよう。

黒崎はそう決めて、じっと目を凝らした。

缶コーヒーの最後の一口を飲み下した時、枯れ草色のコートを着て貧乏臭いマフラーを巻いた貧相な女が出てきた。間違いない。母親だった。

五年ぶりに見た母は、黒崎になんの感慨も抱かせなかった。ただの取るに足らない、みすぼらしい中年女だ。

黒崎は立ち上がり、空き缶を捨てて後をつけた。

人通りの多い商店街に差し掛かり、黒崎は距離を詰めた。いかにも貧乏そうなその女は、長らく他人の関心に晒されてこなかった人間特有の弛緩した雰囲気を全身から漂わせていた。まさか、自分がつけられているなどとは夢にも思っていないだろう。一度も振り返ることすらなく、とぼとぼと俯き加減に歩いていく。

シャッターがちらほら開き始めた商店街は、駅に向かって歩くサラリーマンや犬の散歩をする老人たちがいるだけだった。しかし、人目があればそれで充分だ。

黒崎はそっと息を止め、透明になった。黒崎が透明になったことに気付いた人間はいない。誰も、人間が透明になれることを想定して生きていない。例え見ていたとしても、目の錯覚か気のせいだということにしてしまうのだ。

黒崎は鶏ガラのように細く脊椎の浮き出た首に、そっと手を回した。手には皮の手袋をしている。皮の冷たい感覚に驚いたのか、母の身体がびくりと緊張したのがわかった。黒崎はグッと力を込め、その首を締め上げた。呼吸ができないよう、気道を中心に圧迫した。

細い首は簡単に折れてしまいそうで、黒崎は気を使わねばならなかった。歩いていていきなり首の骨が折れる人間などいない。いくら姿が見えないからと言って、警察に事件として捜査されては面倒なことになりかねない。あくまで病気として処理された方が都合が良いのだ。

声も出せずにじたばたと苦しむ母親に気が付いたのか、通り過ぎる人々はチラチラと視線を投げていた。しかし倒れたわけでもないので駆け寄ってきたり声をかける人間はいない。もがき苦しむ見知らぬ中年女より、時間通り電車に乗ることの方が大切なのだ。

母は皮の手袋に弱々しく爪を立てたが、一分もするとその力は弱まり、やがてぶらんと両手が落ちた。キツいアンモニア臭が鼻をついた。いつの間にか母は失禁していた。商店街の赤茶色のタイルが濡れて濃い色に変わっている。

黒崎はその液体が自分の靴のつま先に到達する前にそっと後ずさり、手の力を緩め、魂の抜けた身体を前に放り出した。

母の身体は受け身も取らずに顔面からベチャリと地面に衝突した。ようやく事態に気が付いたのか、近くを通り過ぎようとした老人が歩み寄って「おい、大丈夫か」と肩を揺すった。黒崎はそっとその場を離れ、止めていた息を吐き出した。透明化するようになって息を止めていられる時間が長くなったとはいえ、かなりギリギリだった。ゆっくりと深呼吸をし、黒崎はそのまま駅に向かった。

最後通達

ピンポーン。

透明化して街中でスッた財布から札を取り出して数えていると、玄関チャイムが鳴った。無視して今日の収穫が二万八千円であること、財布の持ち主が四十五歳の田沼という名であること、行きつけのキャバクラ嬢の名刺などを確認していると、再びチャイムが鳴った。

黒崎はベッドに財布を放り出してドアの魚眼レンズを覗き込んだ。

そこには見覚えのない私服の女が一人、立っていた。なかなかの美人だった。黒崎はチェーンロックをしたまま、ドアを開けた。

「はい」

「こんにちは。私、あなたを透明にした人間です。少しお話したいことがあるのでお宅に上げてもらえますか」

女は赤い唇を動かしてそれだけ言うと、あとは静かに笑みを浮かべるだけだった。

「あの……なにをおっしゃっているのか、よくわかりません」

それだけ言ってドアを閉めようとすると、女はドアの隙間に鞄を差し込んだ。

「とぼけても無駄です。あなたが先ほど、透明化して田沼氏の財布を抜き取ったことも、八日前に実の母親を絞殺したことも、元上司に現金窃盗の濡れ衣を着せたことも五反田の駅前スーパーで子供を蹴飛ばしたことも老人の頭を叩いたり女湯に侵入したりコンビニで万引きしたり歌舞伎町で女性二名のスカートをずり下げたことも、私、というより当局は全て把握しています。

どうせ逃げも隠れもできないのだから、大人しく私がお願いしているうちに、ドアを開けて話を聞くのが懸命ですよ。それに黒崎さん。あなた、頭痛が酷くなっているんじゃなくって?」

「当局?」

「詳しくは、中で話します」

黒崎は女を中に招き入れた。少なくとも、話を聞く必要があった。女は中に入るなり土足のまま上がり込んで一つしかない椅子に腰掛けた。コートとポーチを机に放り投げる。

黒崎はベッドに腰掛け、「それで?」と促した。

「お茶も出さないの? 最近の若い子は常識がないって話、本当なのね」

「常識云々を言うんだったら、あなたこそ靴ぐらい脱いで上がるべきでしょう」

「お茶は結構よ。さっさと本題に入りましょう。私は別に、あなたを捕まえたり罰を与えるためにやって来たわけではありません」

「だろうね。捕まえるにしては力不足だ。もっと屈強でムサい男を寄越さないと」

「ええ。それでは伝達事項を伝えます。一度しか言わないのでよく聞いて下さい」

「伝達事項……そういえば、さっき当局って言ってたけど」

「審査の結果、あなたの階級はF五に決定しました。階級は一生涯変更されることはありません。なお、F五ランクには一切の職能が許可されておりませんので、透明化の能力は本日を以て剥奪となります。能力停止に際して強い衝撃を感じる場合がございますので、ただいまより一時間、運転や外出はお控えするようお願い致します」

女は事務的なそう口調で告げると、口を閉じて黒崎をじっと見つめた。

「意味が全然わからない」黒崎は肩をすくめた。

女は長い足を組み、リラックスした姿勢で座り直した。

「平たく言うと、あんたは新人類の最底辺ってこと。だから与えられる能力も無いし、すでに十六歳を超えているから矯正措置もなし。でもまぁ、生かしてもらえるだけでもありがたいと思いなさいな」と言ってポーチからタバコを取り出し、手慣れた動作で火をつけた。

「さっきから、新人類とか能力とか、一体何のことを言ってるんだ?」

黒崎は苛立った。訳のわからないことを延々聞かされることはストレスになる。それに女の横柄な態度にも腹がたった。

「日本での組織の呼び名は新人類選別委員会、通称を箱舟と言います。もちろん由来は、ノアの箱舟。その名の通り、新人類となる価値のある人間を選別する機関よ。組織自体は世界中に五十年ほど前から存在していて、今では構成員は三百万人くらいかしら。とにかく、私たち箱舟の人間は、人類に新たな能力を付加する技術を手にしているの。あなたが透明になったように、他にも空を飛ぶ能力や、物を触れずに動かす能力、透視や変身する能力があるわ。これらは誰にでも簡単に付与できるの。あなたにやったようにね」

「……オレに、何したんだ。何のために? 頭痛と関係あるのか」

「脳の回路をチョットいじっただけよ。眠っている間にね。でも大丈夫、チップで遠隔操作が可能だから、透明化の能力も簡単にオフにできるの。あなたはもう、何も考えなくて良いのよ。透明化できなくなれば頭痛も自然となくなるわ。それと目的はもちろん、人類の選別よ。全人類をひとりひとり選別するわけにもいかないからランダムで審査しているの。あなたは幸運にも審査対象に選ばれたわけだけれど、透明化の力を手にして、その能力を悪用した。だから、新人類の一員には認められなかったわけ。まぁ当然よね」

「新人類ってなんだ。そんな話、聞いたこともないぞ」

「当たり前じゃない。一般人にそんな話、出来るわけないでしょう? 人類はね、もう増えすぎて地球をものすごい勢いで毒しているの。このままでは、あなたみたいな大量の悪い人間のせいで、良い人間まで滅びてしまうわ。それも地球全体を道連れにしてね。だから、数を減らすの。第一次大粛正。二千二十年の元旦に計画されているわ。

この計画の実行で、現生人類の九十九パーセントは死滅する。箱舟がワクチンを打った人間以外は全て死に絶えるウイルスをバラまくの。ああ、あなたには審査の時に打ってあるはずだから心配しなくていいわ。Fランクの人間、つまり旧人類も必要なのよ。クリーンな人間だけでは世界は成り立たないし、汚れ仕事をする人間も多少は必要だから」

「さっきから何を言ってる。頭がおかしいのか」

「まだ理解できないなんて、あなたバカ?」

女はタバコを床に落とし、ハイヒールで踏みつけて火を消した。そして立ち上がった。「とにかく、これで全部伝えたから」

「ちょっと待て」

黒崎は慌てて女の腕を掴んだ。女は不快そうに眉を寄せて振り返った。

「なによ、まだ何かあるの」

「最低ランクはイヤだ。変更しろ。さもないと、お前を殺して計画のことをマスコミにしゃべってやる」

黒崎は女の細い腕を握る手に力を込めた。女は不快そうに顔を顰めた。

「そんなこと無理に決まってるでしょ。あーもう、これだからFランクの人間の担当なんて嫌だったのに。ねえあなた、黒崎さん。 あなたみたいな、ちょっと息を止めている間透明になれる能力を手にしただけで、人を殺したりお金を盗むような人間に、もっと優れた能力を与えられると思う? そんなことしたら、新人類なんてあっという間に滅亡よ。大粛正後は、その人間の人徳レベルに応じて能力が付与されるの。他人のために自分の能力を駆使できる人間は人類全体を豊かにするから、高い能力を与えて存分に活動してもらうの。反対に、あなたのように徳の低い人間は他人をおとしめたり足をひっぱったり傷つけたりするから、余計なことができないよう最低限の能力しか与えない。当然でしょう。私を殺しても、一度決定した審査結果は変わらない。もちろん、殺せたらの話だけど」

女が言い終わらないうちに、女の腕が固く太く変質していった。筋肉が盛り上がり、服が避けた。目を見張った黒崎は、慌てて後ろに飛び退った。

「ふふ、男だから、力で圧倒出来ると思った? あんたの考えてることなんて、予知能力で全部お見通しなのよ。ちなみにこの腕は変身能力の初歩。顔も厳つい男に変えられるけど、あいにくこの姿が結構気に入っているの。それと、マスコミに話すのは止めた方がいいわね。もちろん、誰もまともに取り合わないでしょうけど、大粛正前にそういう人間が増えることを当局は好まない。Fランクの人間なんていくらでも替えはいるんだから、下手な真似をしようとした時点で、あなた、蒸発させられるわよ」

女は腕の太さを戻すと、コートを羽織って玄関から出て行った。黒崎はベッドに放り出したままの財布や現金と、女が床に捨てていった吸い殻を呆然と眺めた。

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