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お天気妻

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「雨が降ってきたわ。行かなきゃ」

美由紀はそっと、和也の裸の胸を押した。ふっくらとした珊瑚朱色の唇はつやつやとキスの余韻を残している。

「もう少しだけいいじゃないか。せっかく注文したシャルドネだって、まだ栓も開けてない」

「ごめんなさい」

和也が言い終わるのも待たずに、美由紀はきっぱりと謝った。完璧に整った眉は、意志の強さを誇示するように真っすぐに引かれている。普段は誰かに懇願することなどない和也だが、今日ばかりは「お願いだ」と食い下がった。しかし美由紀は血の通っていない電話案内のようにもう一度「ごめんなさい」と言った。申し訳ございません、本日の営業は終了しました。そんな感じだ。

せっかく片手でブラジャーのホックをスマートに外すことに成功したのに。和也はため息を付いた。乱れたシャツはボタンがきちんと留められ、和也の触れた痕跡は綺麗に消し去られた。美和子は立ち上がった。まるでデパートに展示されたマネキンのように完璧に整っている。

「なあ、君は僕の奥さんだろう?」

和也はコートハンガーの前に立ちはだかった。コートを取ろうとした美由紀の手が止まる。

「ええ。わたしはあなたの妻だし、あなたはわたしの旦那さんよ。間違いなく」

下から至近距離で和也を見上げた。大きな瞳には何の感情も浮かんでいない。恋する乙女でもなければ、倦怠期の疲れた妻でもない。怒ってもいないし悲しんでもいない。

「だよな。だとしたら、結婚記念日くらいは天気のことなんか忘れて、夫婦で蜜月を楽しもうじゃないか。僕らはハネムーンにすら行ってないんだ」

美由紀は猫のようにするりと和也の横をすり抜け、バーバリーのコートを手に取り、丁寧に羽織った。先月、和也がプレゼントしたばかりの卸したてのバーバリーだ。誕生日でも何でもなかったが、妻の歓心の買い方を和也は他に知らなかった。美由紀は喜んでくれたが、皿洗いをするだけでも同じように喜んでくれただろう。妻はモノで釣れるタイプの女ではない。わかっていても、和也は何もせずにはいられなかった。

「一度くらいは夫のわがままを聞いてくれても良いんじゃないか」

「このことは結婚前に何度も話し合ったし、あなたも承諾してくれたはずよ」

「なあ美由紀、世界で一番恐ろしい病気を知っているかい?」

「なにかしら」

「孤独だよ。いま美由紀が行ってしまったら、僕はその恐ろしい病気にかかることになる。きみ、教会で誓ったろ? 幸せな時も困難な時も富める時も貧しき時も、病める時も健やかなるときも、死が二人をわかつまで愛し、慈しみ、支えるって」

和也、と美由紀はそっと白くほっそりした指で和也の頬を撫でた。「わたしも辛いのよ。でもこれだけはどうしても無理なの。わかってね」

つま先立ちになり、和也の首に腕を回して蕩けるような柔らかなキスをしてから、美由紀は言った。「あなたを愛してる。世界の誰よりも、永遠に」

「どうした、ため息なんか付いて」

同僚の柊が後ろから肩を叩いた。アルマーニのスーツが嫌というほどキマっている。和也はノートパソコンを閉じた。オフィスは煌煌と明るいが、すでに人気はない。さすがに日付が変わって、皆帰り始めたようだった。和也はディスプレイを長時間見つめすぎて疲れた目を揉み解した。

「昨日は結婚記念日だったんだ。結婚一年目で、最初で、入口で、序章だった。それなのに」

「なんだ、忘れたのか?」

「お前と一緒にするな」

和也と同じく三十五歳だが、結婚を悪魔の発明とか無謀な冒険事業とかと同じジャンルで考えている。にも関わらず和也はこのドンファン気取りの友人が女性を途切れさせたのを見たことがなかった。なぜ女性はこれほど淡白な男に愛を求めてすり寄るのか。

「俺は時間に遅れはするが、記念日の類いは外さない」

「時間に遅れるのは良いのか」

「それは作戦だよ。美女とヒーローは遅れて現れる」

「僕は美女やヒーローよりも、きちんと時間を守る人間の方が好きだ」

「お前の好みが聞けて良かったよ」隣に腰をおろして、柊は優雅に足を組んだ。

「おい、座るな」

「ちょっとだけ匿ってくれよ。朝からミーティング続きでうんざりだ。ここらで仕事してるフリでもして休憩したい。ついでにお前を悩ませている結婚記念日の問題についても相談に乗ってやろう」

僕がありがとうございます是非お願いしますとでも言ってひれ伏すと思っているのだろうか。いや、思っている可能性は大いにある。

「結構だ。お前に結婚生活上の問題は解決できない」

柊は相好を崩した。

「ウエディングケーキはこの世で最も危険な食べ物である、という諺を知っているか?」

なぜだか、笑顔だけは無邪気な少年のように見える。あぁこの笑顔に何人のバカ女がだまされたことだろう、と和也は十字を切りたくなった。

「知らない」

「実際はどうだ? 危険な目にあったか」柊が大真面目な顔で尋ねるので和也はイライラした。「あうわけないだろう。まぁお前みたいにフラフラ遊び歩いてたら、奥さんに命を狙われるかもしれないけど」

「そんなヘマ、するわけないだろう。俺は女をシステム的に管理している。まぁ結婚という行為自体がヘマみたいなもんだからな。不倫する男はマヌケが多い」

「システム?」

「コンピューターで一元管理している。女のプロフィールや顔写真はもちろん、生年月日、家族構成、交遊関係、デートした場所、全てだ。もちろん自前だ」柊はにやりと口角を上げた。自前、というのは自分で設計してプログラミングしたという意味だ。

「ところで世の中の男の大半は、仕事では出来ることが恋愛となると途端に出来なくなるのはなぜだろうな? 意中の女の子を目にした途端、背中のレーザー銃や暗視スコープのことを忘れて素手で飛びかかる。全く、ハンターの風上にも置けない愚行だ」

「僕はハンターじゃなくて農民なんだよ。畑を耕し、種を植え、水をやったり害虫を駆除したりしながら、ゆっくりと作物が育ち、実を付けるのを眺めて楽しむ」

「今どきの農民は、畑を耕したり水をやったりしない。彼らが眺めて楽しむのは栽培システムのモニターだよ。オールLEDと特殊冷却技術を使って隅々まで均質な栽培環境を作り出し、大量の種を植えて多品種の作物を低コストで自動的に生み出すんだ。ハンターよりよっぽどHungryで獰猛で、洗練されてる」

「僕を元気づけようとしてくれてるんじゃないなら、どこかへ行ってくれないか。いまはお前と言葉のキャッチボールを楽しむ気分じゃないんだ」

「そう怒るな。もちろん元気づけようとしているさ。で、落ち込んでる原因は何だ?」

「僕の奥さんがさ、途中で帰っちゃったんだ。三ヵ月前からホテルのスイートを予約して、結婚記念日をルームサービスでも取りながら二人でゆっくり過ごそうと思っていたのに」

「理由は?」

「雨だよ」

「?」柊は眉を寄せて首を捻った。

「雨が降ってきたから、家に帰ったんだ」

「ホテルに屋根は付いてないのか?」

「もちろん付いてるさ。最上階のスイートだけど、屋上って意味じゃない」

「なら雨が降ろうが槍が降ろうが隕石が落ちようが、帰る理由にはならないだろう」

和也はため息を付いた。

「結婚する前から、ずっとそうだった。屋内でも屋外でも関係ないんだ。映画の途中だろうが親の葬式の最中だろうが、雨が降ってきたら、帰る。そういう約束なんだ」

「帰るって、どこへ?」

「彼女の家だよ。僕はそれがどこにあるのかも教えてもらってないけれど」

「結婚した男女は同じ屋根の下で一生の生活を共にしなければならないと聞いていたが、それは都市伝説だったのか」

「基本的にはその都市伝説の通りだよ。でも一緒にいられるのは雨が降っていない時だけだ。雨が降り出すと、彼女は『家』に帰る」

「なぜ?」

それは僕の方が百万倍くらい知りたい。和也はため息を付いた。

「そんな謎めいた女と結婚してたなんて、お前、意外と冒険家じゃないか」

「彼女はそれほどまでに、魅力的なんだ」

柊はデスクに放り出してあった和也のスマートフォンを指差した。写真を見せろというジェスチャーだろう。和也は指紋認証でロックを解除して写真を表示させた。

「なるほど、これはすごい美人だ」

「だろ? しかも綺麗好きで料理がうまくて優しくてもの静かで頭も良い。アッチのテクも凄い。そして何より僕を真剣に愛してくれている」

「完璧だな」柊はスマートフォンを返却してきた。

「そう、完璧なんだ。雨さえ降らなければ」

「雨の降らない国に引っ越せば良い。お前なら別にこの会社じゃなくても、どこでもやっていけるだろ」

「そのことも相談したよ。でも断られた」

うーん、と柊は腕を組んだ。「尾行するしかないな」

「尾行だって? 僕はそんなことしたくない。彼女を裏切りたくないんだ」

「しかし、雨が降ることがお前の奥さんにとってどんな意味を持つのかを知らない事には、何もやりようがないだろう」

「知りたいさ。でも、僕は妻を尾行するような夫になりたくない」

「わがままだな」柊は肩をすくめた。それから口角を上げ、「じゃあこういうのはどうだ」と続けた。

土曜日。和也はその日の朝、トーストにバターを塗りながら天気予報が晴れのち雨であることを確認した。美由紀はキッチンで二人分のマグカップにコーヒーを注いでいる。

「今日は夜まで、一緒にいられそうだね」

「ええ、嬉しいわ」

プルルルル。プルルルル。

インターホンのランプが点滅し、ディスプレイに一人の人物が映し出された。

「あら、誰かしら? こんな朝早くに」

テレビ画面に表示されている時刻は七時四十五分。美由紀はスリッパのパタパタという可愛らしい音を鳴らしながらキッチンから出て通話ボタンを押した。

「宅急便です。お荷物のお届けに参りました」

マンション玄関の解錠ボタンを押してインターホンを切ると、美由紀は「なにかしら」と独りごちた。和也は肩をすくめて「さあ、なんだろう」と返す。さっぱり見当もつかない。アイハブノーアイデア。そんな感じに見えたはずだ。

ピンポーン。

今度は玄関チャイムが鳴る。美由紀の後ろ姿を見送ってから、和也はゆっくりと深呼吸をした。落ち着け、大丈夫。全ては予定通りだ。

ガチャッとリビングのドアが開く。和也は何気ない素振りで振り返った。青のつなぎにキャップ、眼鏡とマスクをした男が、美由紀の喉にナイフを突きつけて立っていた。美由紀は美しい顔に恐怖の色を浮かべ、和也を見つめている。和也は立ち上がった。

「な、なんだお前!」

うん、なかなかの演技力だ。失業したら劇団に入るのも楽しいかもしれない。

「今日一日、この家に居させてくれ。なに、大人しくしていれば何もせずに明日には出て行く。あなたたちは何もせず、この部屋でテレビでも見て過ごせば良い。簡単だ。いつもの休日と何ら変わりない。ただし、外部に連絡を取ろうとしたり逃げ出そうとしたら殺すので、そこだけ注意してくれればいい」

「わ、わかった。わかったから、妻を離してくれ」

男はあっさりと美由紀を解放した。美由紀は和也に駆け寄り、力一杯抱きついた。和也は美由紀を庇うように後ろに隠し、男と距離を取った。うん、悪い気分じゃない。一度、こういうシチュエーションに憧れていたのだ。守るものがあるということは、人生を豊かにする。

「どうぞ、座ってくつろいでくれ。あぁ、オレにはおかまいなく。コーヒーも不要だ」

そう言って男はコの字型のソファーの一角に腰をおろした。おいおい、ちょっとくつろぎ過ぎじゃないか? 和也は眉を寄せた。

「あなた……」美由紀は和也の腕を掴んだまま、アイコンタクトをした。

「彼の言う通りにしよう。何もしなければ、危害は加えないんだろう?」

男はテレビに顔を向けたまま面倒くさそうに「その通り」と言った。もう少し緊迫感が欲しいところだったが、美由紀の目の前で強盗にダメだしするわけにもいかない。和也はしぶしぶソファに腰をおろした。

それにしても、武器はモデルガンの予定だったのに、なぜナイフに変更したのだろうか。これでは美由紀が逃げようとした時に牽制するのが難しいのではないか。いや、現代の日本で銃というのはリアリティに欠けるという理由から、柊が勝手にナイフに変更したのかもしれない。和也は男がテレビのリモコンみたいな気軽さで持っているナイフを見た。

あれ、本物じゃないよな? でも金属の光り方や男の指の力の入り具合から言って、どうも本物に見える。というか、見れば見るほど本物にしか見えない。しかし本物のナイフなど使って万が一怪我でもしたらどうするつもりだろう。和也は腹を立てた。

美由紀は和也の腕を掴んだまま、じっと男の横顔を睨んでいる。

「あなたたちは、なぜ結婚したんだ?」

男が不意に顔を向けてきた。サングラスとマスクに隠れ、表情は全く見えない。声色もボイスチェンジャーを使っているらしく、奇妙に色彩を欠いた低い声だ。

和也は顔を顰めた。「なんだって?」

「聞こえただろう。あなたたちが結婚した理由を教えてくれ。なれそめでも良い」

男にナイフの切っ先を向けられ、和也は身を引いた。美由紀が掴まる手に力を込める。

一体、柊はどういうつもりなのだろう。思い出話に花を咲かせてあの頃の愛を取り戻させる作戦か? しかし僕らは別に愛が冷めたわけではない。一年経った今でもアツアツだ。ただ “雨” という障壁が二人を隔てているに過ぎない。

「もちろん、愛し合っていたからだ。なぜそんなことを訊く」

「テレビは退屈だ。あなたたちと話をする方が面白いかもしれない。それに、オレは結婚というものに興味がある。愛する女と一つ屋根の下で生活するってのはどんなものかと、よく考えるんだ。まぁオレには愛する女なんていないし小説も読まないから、想像は広がりに欠けるしリアリティもない。それにしても愛とは一体なんだ?」

男は少しの間、何か思案するように顔を上に向けた。

「そうだ、あなたたちの愛を試させてもらって良いかな?」

なんだこれは。和也は掌が急速に汗をかき始めたのを感じた。こんなのは打ち合わせにない。柊は家に押し入って美由紀と僕を拘束して、あとは雨が来るのを待つ約束になっていた。美由紀は柊と面識もないので、顔を隠したりボイスチェンジャーを使う必要もない。それなのに、このナイフを持った男は顔を隠し、声も変え、しかも結婚に興味があると言った。柊らしくない。何かおかしい。

「奥さん、あなたは夫のためにどこまで出来る?」

男は和也の横に移動し、脇腹にナイフを突きつけた。固い先端の感触に、和也はスッと背筋を凍らせた。本物だ。差したら刃が引っ込むピコピコナイフじゃない。和也の青ざめた顔を見て、美由紀も恐怖を倍増させたようだった。

「立って」男が命じた。

美由紀は硬い表情で立ち上がった。

「服を脱いで」

美由紀は男から視線を外さないまま、服を脱ぎ始めた。黒のタートルネックのニットセーターとスキニージーンズを脱ぎ、下着姿になったまま自分の肩を抱いて立ちすくんだ。

「なるほど。愛は女の裸よりも軽く、下着よりも重いのか」と男は大真面目に頷いた。からかっている様子もないし、皮肉が込められているようにも聞こえなかった。「思ったより、大したものじゃないな。やはり一人で想像を続けると、期待が混じって正確なシミュレーションはできないのかもしれない。あぁ、もう良いよ。服を着て」

和也の脇腹からナイフをどけると、男は元の位置に戻ってテレビに顔を向けた。しかし何を思ったのか、美由紀はブラジャーとパンティーを脱ぎ始めた。男は少し驚いたように、その様子を見守った。

美由紀は取り去った下着を乱暴にフローリングに叩き付けた。

煌々と明るい朝のリビングに、妻が裸で立っている。しかも手で隠しもせずに仁王立ちだ。隠す必要などないくらいに完璧なプロモーションだが、美由紀は奥ゆかしい女だ。夫と見知らぬ男の前で裸になるのには、相当な心理的負荷が掛かっているはずだ。

和也を挟み、裸の妻と顔を隠した強盗がにらみ合った。

「時刻は七時五十八分、七時五十八分」とテレビが繰り返した。間の抜けたBGMと共に星座占いが始まった。和也は美由紀の屈辱を思って胸が苦しくなった。

「はは、奥さん。あなた面白い人だな。それにとびきり美しい」

美由紀は答えない。男が両手を挙げて降参のポーズを取った。ナイフは右手に持ったままだ。「わかったよ。奥さんの愛は裸より重い」

ピンポーン。

間の抜けたチャイム音が響く。男が立ち上がって裸の美由紀の手首を掴み、インターホンを確認した。「知り合いか?」

「知らないわ」美由紀は首を振った。

男はナイフを美由紀の首に突きつけ、和也の方を振り向いて「妙なことをしたら殺す」と言った。和也は頷く。男は通話ボタンを押した。

「宅急便でーす」聞き慣れた声。間違いない、柊だった。和也は唇を噛んだ。なぜさっき気付かなかったのか。解錠ボタンを押して柊を中に入れる。

「いつも通り、荷物を受取るんだ。いいか、少しでもおかしな素振りを見せたら、わかっているな?」

「わかっている」と返しながら、和也はほとんど冷静さを失っていた。うまくものを考えられない。ドアを開ければ、柊は強盗として押し入ってくる。友人を巻き込むわけにはいかない。しかし説明する余裕はないだろう。助けを求めるべきか? しかしこの男は一日大人しくしていれば何もせずに出て行くと言った。いや、本当だろうか? まだ男がやって来て十五分足らずだが、すでに妻は裸でナイフを突きつけられている。ただで済むのだろうか? 柊と二人で襲いかかれば、取り押さえられるかもしれない。でももし失敗したりうっかりナイフで刺されたら?

ピンポーン。

男が顎で玄関を差す。「リビングのドアは開けておくから、会話は筒抜けだ。いいな?」

和也は何の作戦も思いつかないまま、半ば朦朧とした状態で玄関に向かった。ドアの取手を握る。マズい。どうしようどうしよう。振り返るが、さすがに玄関から見える位置に、男はいない。しかし耳をそばだてているのは間違いない。

ドアを開ける。

さっと冷たい外気が流れ込む。

つなぎ姿の柊が小脇に段ボールを抱えて立っていた。和也は人差し指を立てて口の前に持っていった。万国共通の「静かに」のジェスチャー。柊にも通じたらしく、彼は小首を傾げた。和也の深刻な表情にも違和感を感じたらしい。和也は首を横に振って作戦の中止を訴えかけたが、柊はますますワケがわからないというように眉を寄せた。

「ありがとうございました。確かに受取りました」和也はそう言って帰れと伝わるよう手を振った。柊は不服そうな顔をして、それから小声で「なんだ? 何かあったのか」と言った。

「しっ! しゃべんな」

「なんだよさっきから。お前どうしたいんだ? 段取りは?」

「段取り? あんた方は知り合いか」男が玄関先に姿を見せた。美由紀は裸のまま首にナイフを突きつけられている。柊はまず美由紀の裸体を足の先までじっくり見てから、ナイフを見て、顔を隠した男を見た。そしてようやく状況を呑み込み、青ざめた。

「とりあえず、あんたも中に入ってもらおうか」

柊は一瞬、足をびくりと引いて逡巡したが、裸でナイフを突きつけられた友人の妻をもう一度じっくりと見てから、大人しく玄関に入った。

「さて、説明してもらおう。あなた方の関係は?」

和也は嘘をつこうか迷ったが、既に先ほどのやり取りで、少なくとも知り合いであることはバレているだろう。

「会社の同僚だ」柊が言った。

「その格好は? なぜ宅配業者を装っている」

柊は黙り込んだ。和也も言葉を探したが何を言うべきか思いつかない。

「すまないが、妻に服を着せてくれないか。このままではあんまりだ。寒いし、風邪を引くかもしれない」

「あぁ、そうだな。忘れてた。すまない奥さん」男はあっさりと美由紀を手放した。美由紀はリビングに駆けて行った。男はぐいっと和也を引き寄せ、美和子に見えるように和也にナイフを突きつけた。

柊が言った。

「まだ状況が呑み込めてないんだが、あんたは誰だ?」

「オレは強盗だ。きみこそ何だ? なぜ会社の同僚が宅配業者を装って尋ねてくる。段取りとはなんだ」

柊は和也に目配せをしたが、和也は目を合わせることしか出来ない。

「サプライズだよ」

「サプライズ?」男は初めて聞く言葉を耳にした子供のように首を傾げた。

「奥さんへのサプライズだ。俺はこいつに頼まれて、こうしてサプライズプレゼントを持ってきたわけだ」柊は和也が小脇に抱えた段ボールを目で指した。

「なるほど」男はさして興味もなさそうに頷いた。それから和也に段ボールを開けるように言った。和也は段ボールに何が入っているのか聞いていない。しかし柊がサプライズプレゼントと言うからには、おかしなものは入っていないだろう。

おそるおそる、和也は段ボールを開けた。中には色とりどりの酒瓶がギッシリ詰まっていた。ワイン、シャンパン、ウォッカ、焼酎、何でもある。一つ一つ割れないように丁寧に包装されている。

「奥さんはよっぽど酒豪なのか?」

「妻はいくら飲んでも酔わないんだ」和也は言った。それは真実だった。何をどれだけ飲んでも、妻は顔色一つ変えない。

男は少しの間、段ボールに詰まった酒瓶の山と柊を見比べていたが、やがて興味を失ったように両肩を上げた。

「まぁ、何でも良い。しかしここに来てしまったからには、今日一日、こちらのご夫婦と一緒に、この家にいてもらう。もちろん、予定通りこの酒で楽しんでもらってもオレは一向にかまわない」

午後六時、急速に暗くなり始めた窓の外を眺め、男は言った。

「一日中テレビを見ていると言うのも退屈なものだな」

朝のニュースに始まり、昼の情報バラエティ、ドラマの再放送、夕方のグルメリポート。時間はあまりに緩慢に流れた。男は約束通り何もして来なかったが、トイレに立つ時だけは一人を人質としてナイフを突きつけ、トイレのドアを閉めることも許さなかった。

「あんたも呑めばいいじゃないか」柊は少し呂律が怪しくなってきている。「これなんかおススメだぞ。獺祭。知り合いから譲ってもらったプレミアものだ」

「オレは呑まない」

「なんだ。人の家に強盗に入って、人に酒を奢ってもらう機会なんてなかなかないぞ。しかも獺祭だぞ。幻の」

「しつこいな」男は柊が寄越したグラスをうるさそうに手で払った。

「じゃ、奥さん。どうです? これはそこらへんの日本酒とは訳が違いますよ」

美由紀もそれを苦笑いして無言で断った。

「お前はもうやめておいた方が良いんじゃないか?」和也は内心、穏やかにテレビを見ている強盗よりも柊の方にヒヤヒヤさせられた。酔って、今日の計画のことを漏らされでもしたらこれまで築いてきた夫婦間の信頼関係に取り返しのつかないヒビが入りかねない。

最初は柊が「せっかくだから呑もう」と強引に勧めるので、何か策があるのかと思って付き合ったが、既にそのことを後悔し始めていた。

「バカ言ってんなよ。こんな訳のわからん状況、呑まなきゃやってられないだろう」

顔色は変わっていないが、明らかにいつもの “クールな柊サン” ではない。アルマーニのスーツと一緒にプレイボーイの皮も脱ぎ捨ててしまったのか。これまで彼が振ってきた女たちに今のつなぎ姿で酒を呷ってくだを巻く柊の姿を見せてやれば、彼女たちも溜飲を下げるに違いなかった。

「すまないな、オレのせいで。奥さんも旦那さんも、せめて好きなだけやってくれ」

男は片手でナイフを弄びながら肩をすくめた。柊よりもよほど常識人に見える。隣では赤ワインの入ったグラスを妻が持ち上げた。彼女は一定のペースでグラスを持ち上げ、呑み、そしてまたワインを注ぐという行為を繰り返している。いつもと違うのは終始無言だという点だけだ。耳の色すら変えず、表情も変えず、機械的にワインを呑んでいる。その美しい横顔からはなにひとつ感情を読み取ることができなかった。視線は窓の外に向けられている。

「おや、雨か?」

男がリモコンを操作してテレビの音量を下げた。サアサアと、水音が聞こえた。

「そういえば、今日は夜から雨だとニュースでやってたな」柊がしれっと言った。

美由紀は持っていたグラスをテーブルに戻した。

「行かなきゃ」

そして立ち上がった。和也は慌ててその手を引っ張る。「待つんだ美由紀、今日はいくらなんでも無理だよ。諦めるんだ」しかし美由紀はその手を振りほどいた。

「どうした?」男が顔を向けた。

「わたし、帰らせていただきます」美由紀は毅然とした様子で言った。

「奥さん、そういう訳にはいかない」男は首を傾げた。「それに、帰る? ここはあんたの家じゃないのか」

「ここがわたしの家よ。でも、他に帰らなきゃいけないところがあるの」

「なんだか知らないが、奥さん。最初に伝えた通り、今日一日はここでじっとしていてもらう。オレは無闇にあんたたちを傷つけたくない。座るんだ」

男は和也に顔を向けた。お前が止めろと言うのだろう。

「美由紀、頼む」

「あなた、ごめんなさい」美由紀は腕を掴んでいる和也の手に手を重ねた。「傷つけたければ、好きにすればいいわ。わたしはどうしても、今、帰らなきゃいけないの」そしてソファからじりじりと後ずさりを始めた。

男はため息をついた。そして和也を引き寄せてナイフを首筋に当てた。「旦那が死んでも?」ピリッと痛みが走った。ナイフが皮膚に食い込み、血が一筋流れた。和也はバケツを頭から被せられたように震え上がった。

「オレは身体能力に自信がある。奥さんのその華奢な足では、到底逃げ切れない。そのドアから一歩でも出たら、このナイフは旦那の首を切り裂く。そしてあんたは追いつかれたオレに後ろから心臓をひと突きにされる。それでも行くか?」

「お願いです。あなたのことは絶対に口外しません」

「はいそれなら結構ですと、オレが認めるとでも?」

「思っていません。しかし、わたしにはこうして頼み込むしか方法がありません」

「冷静じゃないか。静かに酒を呑みながら精神錯乱を進行させていたって訳じゃなさそうだ。一体、突然どうしたっていうんだ」

「雨が」美由紀は少し言い淀んでから、もう一度言った。「雨が振ってきたので」

男は首を傾げた。それから柊を見て、柊に首を振られると今度は和也に顔を向けた。

「つ、妻は、雨が降るとどこかへ行ってしまうんです。だから、結婚式も挙げていないんですよ。式の最中に花嫁が帰ってしまっては大変ですから」グッとナイフが少し強めに食い込んだ。和也は恐怖で泣きそうになりながら必死で堪えた。妻とプレイボーイの友人の前で無様に泣き出すわけにはいかない。しかし「僕はそれがどうしてかも、どこへ行っているのかも知りません」と言い終わると涙が溢れた。あまりに滑稽で、不甲斐ない。

「最近の夫婦は、どこもこうなのか?」男は柊に訊いた。

柊は首を横に振った。否定しているというより、わからないという表情だ。

「奥さん、どこへ行くつもりだ?」

「言えません」美由紀は悲しそうに和也を見て、それから窓の外を見た。「お願いです。時間がありません」

「……まぁいいさ。どうせ聞いたところで、あんたを行かせるわけにはいかないんだ。しかし、旦那がナイフで殺されかけて泣いているのに、事情すら言えないとは……やはり愛とはそれほど大したものでもなさそうだ。裸よりも重いが、旦那の命よりは軽い」

美由紀は窓の外の雨と和也を見比べ、青ざめている。

「お願いです。雨が止んだら、必ず戻ってきます」

「奥さん、何度も言わせるな。ソファに戻るんだ」男はナイフを数ミリ横に滑らせた。和也はその冷たい感触と極限まで敏感になった肌に与えられた痛覚に息を詰まらせた。ここで死ぬのか。妻の秘密もわからないまま、愛する妻に裏切られて死ぬのか。なす術もなく友人の前で、ナイフで喉を切られて、和也は自分の喉から勢いよく血液が吹き出し、呼吸も出来ないままのたうち回る自分を哀れに思った。仕事も真面目にやったし浮気だってしたことがない。妻のことを心から愛したし友人だって大切にした。それなのに。

「あなた」美由紀は目に涙を浮かべた。和也はその表情を見て、目を閉じた。いいんだ。僕は妻を愛した。妻に裏切られても、それは変わらない。僕のことを忘れないでくれ。和也は最後の呼吸のつもりで息を吸い込んだ。

冷たいナイフの刃がスッと横に動き、喉がぱっくりと割れて切断された大動脈から血液が吹き出すのを待った。

しかし、先に苦しくなって息を吐いた。

おそるおそる目を開けるのと、ナイフが肌から離れるのはほぼ同時だった。美由紀はソファに戻ってきていた。そっと元の場所に腰をおろした。

「良い判断だ」男は和也を解放した。

和也は胸で息をしながら、男から離れた。いつのまにか額に大量の汗が浮いている。

「ごめんなさい」美由紀は言った。

和也は呼吸を整えながら「いいんだ」と言った。そして「ありがとう」と言った。柊は口を半開きにさせ、奇妙な形の虫でも見るような目で美由紀を見ていた。

「良かったのか?」和也が聞いた。

「あなたが目の前で殺されるよりは、いいわ。どんな結果になろうとも」美由紀は和也を抱き寄せた。美由紀の香水の匂いと柔らかい肌の感触に包まれ、和也は全てがどうでもよくなった。美由紀の胸は涙と一緒に疑念や恐怖心を吸収していくようだった。顔を上げ、美由紀にキスをした。「愛してる」

「わたしもよ」美由紀は和也の髪にほっそりとした指を差し込んだ。その指は細かく震えていた。

和也はハッと目を覚ました。ソファに座ったまま眠っていたらしい。こんな状況でも眠れるとは、自分は意外とタフなのかもしれない。昨日は結局日付が変わるまで酒盛りをした。柊が男にやたらと勧めていた獺祭という酒を呑んだ辺りからの記憶があやふやだ。

窓の外では、まだ雨が降り続いている。

まだ暗いが、わずかに空が白んでいた。夜明けは近い。

机の上にはグラスと酒瓶が散乱していた。ナイフを手にした強盗を前に記憶を無くすまで呑んだということは、武勇伝になるのだろうか。頭痛はするし口の中もネバネバして不快だったが、なんだか生まれ変わったような気分だった。実際、死にかけたし。

柊は胎児のように丸まってソファで眠っている。男はナイフを握ったまま俯き、微動だにしない。サングラスとマスクのせいで眠っているのか起きているのか腕時計に目を凝らしているのか、何も判断できなかった。

今ならナイフを取り上げることが出来るかもしれない。しかし膝には美由紀の頭が乗っているので、身動きが取れない。

「おい、柊」和也は柊の頭をつつきながら、小声で呼びかけた。「起きろ」

柊はうーん、と迷惑そうに眉を寄せ、次にガバッと身体を起こした。それから周囲をキョロキョロと見回した。

「しっ、しずかに」

柊は俯いたまま動かない男を凝視しながら、「寝てるのか?」と訊いた。「わからない」和也は返した。「もちろん起きている」と男は顔を上げた。

和也はがっくりと肩を落とした。柊は「なんだよ」と吐き捨てた。

「そう落ち込むな。もうすぐ夜明けだ。もう少し明るくなったら、オレは出て行く。その前にすぐに通報出来ないように軽く縛らせてもらうが。なに、必死でもがけばそのうち外れるさ」

男はそう言って立ち上がると、いつの間に準備したのか、つなぎのポケットからガムテープを取り出した。眠っている間に、タンスを捜索されたのかもしれない。来た時はあんなふくらみはなかった。

「奥さんを起こせ」男が命じた。

そういえば。和也はふと思った。

美由紀の寝顔を見るのは久しぶりだ。美由紀はいつも和也よりも後に眠り、先に起きる。和也は優しく妻の肩を揺すった。しかし美由紀は目を開けなかった。もう一度、今度は強めに揺する。しかし美由紀は目を開けない。

おかしい。

和也は自分の心臓の音がうるさくなるのを感じた。

「美由紀?」

ゆさゆさと揺らしても美由紀は目を覚まさなかった。そう言えば、美由紀は雨が降り出して一時間もしないうちに「眠い」と言って和也の膝を枕に眠りこけた。しかしあの時はまだ午後八時にもなっていなかったのではなかったか。

柊が心配そうに美由紀を覗き込んだ。「どうしたんだ」

「わからない。目を覚まさない」和也は半ばパニックになりながらも美由紀の脈を確かめた。首に指を当ててみたが、よくわからない。呼吸もしていないのではないか。しかし身体は暖かかった。

ピピピ。ピピピ。

机に放置されていた美由紀のスマートホンが光った。ディスプレイには見覚えのない電話番号が表示されている。柊と一瞬目を見合わせてから、和也は男を見た。男は顎で、出ろ、と示した。

「はい」和也は通話をオンにして返事をした。「美由紀はどうした」声の主はそれだけ言った。コンピュータで合成したような無機質な声だった。男女の区別もつかない。

「あなたは?」

「美由紀の保護者だ。そちらは?」

「夫です。保護者、とおっしゃられましたが、ご家族の方でしょうか」和也は訝しんだ。美由紀は孤児だ。入籍の時にも身よりがないことは確認している。男はナイフを和也の腰にあてがって、じっと聞き耳を立てている。

「家族ではない。保護者だ。美由紀はどうした。昨夜は雨なのに帰らなかったようだが」声は無感動にそう述べた。

「ちょっと、事情があって。家から出られなかったのです。今は……眠っています」

和也は美由紀の頬に触れ、暖かさを確認した。大丈夫、きちんと体温もある。眠っているだけだ。電話の向こうからチッという舌打ちがはっきりと聞こえた。

「では今、美由紀は家にいるんだな?」声の主は少し苛立っているようだった。和也ははぁ、と返事をした。と同時に、通話は唐突に切れた。

「誰だ」男がスマートホンを和也の手から取り上げた。和也は肩をすくめた。「さぁ、僕が知りたいくらいです」柊は「浮気相手か?」と真面目な顔をしていた。

「美由紀は浮気なんてしない」

柊がそんなのわからないぞ、と言いたげな表情をしたが無視した。男はマスク越しに鼻の頭を二回掻いてから「早めに撤収した方がよさそうだ」と言ってガムテープをビッと伸ばした。

空はすっかり明るくなった。正体不明の男は和也と柊と美由紀の両手両足を縛ってフローリングに転がせて、「世話になった」とだけ言ってあっさり出て行った。本当に何も盗ったり壊したりしなかった。この場合、強盗と呼べるのだろうか。和也は疑問に思った。ナイフを持って顔を隠していたこと以外は、至って普通の、常識ある人間のように思われた。

ピンポーン。

男が出て行ってほどなくして、マンションのではなくこの部屋の玄関チャイムが鳴った。しかし柊も和也も、立ち上がることはおろか声を出すことすら出来なかった。美由紀は縛られている間も目覚めることなく、未だにこんこんと眠りつづけている。

ピンポーン。

もう一度チャイムが鳴った。次に、ガチャッという音を立てて玄関ドアが開かれた。男は鍵をしていかなかったようだ。足音がして、リビングのドアが開いた。

さっきの男とは別の男が立っていた。坊主頭の、黒いコート姿の男だった。とても背が高い。二メートルはありそうだ。床に転がされたまま、和也はその男をまじまじと見上げた。

男は無機質な目で和也と柊を見下ろしたが、全く興味を示さずに土足のまま身体の上を跨いで通り過ぎていった。男は和也たちに背を向けたまま美由紀の横にしゃがみ込んだ。美由紀の横顔、重そうなアタッシュケースを脇において開けた。中からは蛍光緑の大きな電池のようなものが取り出された。なんだあれ?

和也と柊が見守る中、男はチラリと二人を振り返り、眠り続ける美由紀を見て、美由紀の上に馬乗りになった。それから美由紀の服をはぎ取った。和也は驚いて声を上げた。しかしくぐもったうめき声が虚しく漏れただけだった。バタバタとタバコの火を近づけられた芋虫のようにもがいたが、手が外れる気配は全くなかった。

男は慣れた手つきで美由紀のヘソを強く押した。穴があくのではないかと言うくらい、男の指は美由紀の腹に沈み込んだ。しかし美由紀は微動だにしない。

三秒ほど後、プシュッという宇宙船のドアの開閉音に似た音がして、美由紀が開いた。弁当箱みたいに、ぱかっと裸の胸が横に開いたのだ。和也は目眩がした。これは夢か?

男は美由紀の開いた胸に手を突っ込み、すこしごそごそとやった。そして、まぎれもなく美由紀の胸の中から、蛍光ピンクの大きな電池のようなものを取り出した。「やはり、バッテリーがあがっているか」そうつぶやき、それを鞄にしまった。そして蛍光緑の同じ形の電池らしきものを、美由紀の胸に埋め、美由紀の胸を閉じた。またプシュッという機械的な音がした。

美由紀がぱっちりと目を開けた。そして、自分に馬乗りになっている男を見て、和也たちを見た。大きな瞳にはすぐに涙が盛り上がって、ぼろぼろと溢れた。和也も、それを見た瞬間に涙が溢れてきた。あぁ、終わってしまう。和也は泣いた。

「もうわかっただろうが」男が唐突に切り出した。「美由紀は人間じゃない。正式名称はB-NH018。我々の、いわば偵察機だ。地球の様子をこの個体の中に隠れながら探り、随時母船に報告している。ただ、雨に弱くてな。屋外では特殊なコーディングなしでは半時と保たん。屋内では数時間は持つがやはり限界はある。雨が降れば、即座に観測を中止して我々の母船に戻り、治癒する必要がある。雨の多い日本は後回しにしていたんだが、上がうるさくてな。壊れかけのコイツを回すことになった。なに、地球任務が長いせいで少し故障しているが、偵察には支障ない」

男が美由紀のガムテープを剥がした。手を自由にし、男が足にぐるぐる巻きにされたテープを剥がしている間に、美由紀はブラウスの前を留め、自分で口のテープを剥がした。

やがて完全に自由になると、美由紀は大粒の涙をこぼしながら言った。

「ごめんなさい、あなた。愛しているわ」

男は「ほらな」と言わんばかりの顔をした。和也はうめきながら泣いた。美由紀は近寄り、和也の口のガムテープに手を伸ばしたが、そこで動きを止めて立ち上がった。そして先に歩いていく長身の男の後を追い、一度も振り返らずに玄関から出て行った。

編集後記

とりあえず、ショートショート千本ノック一発目!

いやぁ、時間が掛かっちゃいました〜こんなんじゃ千本書き終える頃には何年先になるかわからないので、もう少しペースアップしたい。せめて一日一本。スピード重視!質より量!

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コメント

  1. 矢戸だいはち より:

     初めまして矢戸と申します。通りすがり。
     お天気妻の感想というべきかわかりませんが、コメントでも。
     読んでみて、何と書いてみたらいいか分からない。入ってこない。
     小説作法を読んでいるのなら、もう一度2章から読んでみるといいですよ。1章は書くための情熱を持つための章なので、書く事に興味が出てこないと意味がない。
     キングも副詞はタンポポ(雑草)だから削り取らないと、勝手に生えてくる。なるべく削るって言ってましたよ。

     1.起承転結がない? 起伏が少ない? 問題発生が少ない? 起承転結はもともと漢詩から生まれた技法なんで、ショートショートをするなら雅楽の序破急ぐらいのスピード感がほしい。個人的な趣味ですが。
     2.小説ルールの逸脱。段落が変わるなら、行頭一マス空ける。最初はいいけど、誰かに見せたいなら、ルールを知ることも大切。
     3.ブログ書きだからか分からないが、行間を開けすぎない方がいい。ブログ記事は開けたほうが見やすいかもしれないが、小説ではそうはいかない。行間は必殺技だから、「ここぞ!」というところで使う。
     4.15000字くらいなら、小題を決めてもいい。起承転結だけだと味気ない。例えば、起の小タイトルは「世界で一番恐ろしい病」かな?
     5.キングの本を読んでいるなら、ご存知かもしれませんが、会話の限定詞は「言った」が無難です。
    例:和也はコートハンガーの前に立ちはだかった。
    →和也は美由紀に言った。コートを取ろうとした美由紀の手が止まる。
    和也の文章でコートハンガーを出さなくても、美由紀がコートを取ろうとしているのだからコートハンガーの近くにいるのがわかる

     通りすがり失礼しました。

    • shiroto より:

      >矢戸だいはちさん
      コメントありがとうございます。
      自分でも読み返してみましたが、本当に入ってこない!オチも意味不明でお恥ずかしいです。こんなこと自分で言いたくないですが、客観的には全体的にもっさりした作品。おっしゃる通り、起承転結がない。いや、章題にはあるけどできてない。
      凝ったセリフを使おうとしすぎて本筋がおろそかになってる感が恥ずかしいです。

      でも、こんな作品でも読んでもらえて、しかもコメントまでいただけるなんて感激です。
      ありがとうございます。

  2. 矢戸だいはち より:

    練習なら、起承転結なくても、ワンシーンを描く練習してもいいんですよね。ただ、起承転結があった方が面白いっていうだけの話です。