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「醜」の正体とは?

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「美しい」「醜い」って人によって感じ方が違うじゃないですか。でも一方で、いわゆる美人、とかブスとか、美しい景色とか醜いものっていう共通認識とされているものもあります。

そこに正面から切り込んで考えた感じの、ちょっと難しいけど面白い本を読んだので忘れないうちにまとめてみました。

「醜」の正体とは?

”醜” とは「形の定まらないもの」、「形の逸脱」である。

醜い=(古語)かたなし=かた(かたち)+なし(否定)

醜形恐怖症=Dysmorphophobia=Dys(否定)+morpho(かたち)

というように、「醜い」というのは、単語の成り立ちとして「形の否定」というニュアンスを含んでいます。では形とはなんでしょうか?

一般的に、美人と呼ばれる人たちの顔の造形は「黄金比率」に近いとされています。目と眉の間隔とか、顔の輪郭に対する目、口、鼻の配置とか。この黄金比率顔に近ければ近いほど美人なんです。美人であればあるほど「没個性的」な顔になり、逆に、この顔から外れれば、「個性的」と呼ばれたりもします。

つまり、「黄金比率」という形から外れたものを、人は醜いと感じるのみたいです。

original

この形からの逸脱が大きくなると、ある地点から「醜い」と感じるようになります。

「醜い」=「みにくい」=「見にくい」

見にくい、とは、つまり「目を背けたくなるもの」ということです。

では人はどういう時に、目を背けたくなるのでしょうか?

それは、見たいものと見たくないものが混在している時です。両価的葛藤(ambivalence conflict)と言い、一種の混乱が生じ、そのために対象を「受け入れ難い」と認識し、「目を逸らす」ことになります。

<例>

  • 「イザナギ神話」のウジ虫が湧いたイザナミ
  • 「鶴の恩返し」の羽で布を織る鶴女房のつう
  • 絶品みそ汁を作る蛤(はまぐり)女房(※1)
  • 「アンナ・O嬢とみじめなブロイアーの神話(※2)」のアンナ・O嬢のヒステリー性陣痛

※1 みそ汁に自分の尿を入れていた!!

※2 ブロイアーとフロイトの「ヒステリー研究」の冒頭を飾る事例

自分が「美しい」と感じていたもの、つまり「見たいもの」に「見たくないもの」が混じると、人はそれを醜いと感じます。

イザナギは美しいイザナミの顔(見たいもの)にウジ虫(見たくないもの)が混じったことで、イザナミを見捨てて逃げ帰りました。鶴の恩返しでは、美しい女房(見たいもの)が実は鶴(見たくないもの)だったし、蛤女房は美しい女房が実は蛤で、うまいと思っていたみそ汁に、女房が自分の尿を入れていたのを見てしまい、怒って追い出してしまうという話です。

アンナ・O嬢とみじめなブロイアーの神話というのは、ブロイアー医師(臨床心理士)と美しい患者アンナ・O嬢とのヒステリーの催眠治癒の話です。彼女は症状が治まりかけた頃、ブロイヤーが子供を欲しがっていることを知り、想像妊娠しました。ブロイアー医師は自分でも気付かないうちにアンナ・O嬢にそのような想いを抱いていたことを知り、どうしていいかわからずイタリアへ逃げ帰りました。

「かたち」の成り立ち

醜が「かたち」の逸脱であり、見たいものと見たくないものの混在によって生じるという話をしました。それでは、「かたち」とは何なのでしょう? どのようにして決められているのでしょう?

学生服の着崩しファッションが生まれる理由

学生服の着崩しは「かたち」の逸脱です。しかし、着崩しファッションは学生たちにとっては「かっこいいもの」、「美」として受け入れられています。これはどういうことでしょうか。

実は、「かたち」には「ゲシュタルト(Gestalt)」と「モルフィー(morphy)」との二種類があります。ゲシュタルトは固まった、静的な形状を意味しますが、モルフィーとは、動的に変化する形状を意味します。映画やアニメーションで使われるSFXの手法「モーフィング」や、麻酔に使われる「モルヒネ」と語源をともにしており、変身・変化の意味を内包しています。「モルフィー(かたち)」は、否定された上で、再び「かたち」になろうとする運動を内包しています。

学生服の例は、後者の「かたち」で説明がつきます。一度「着崩し」により否定された上で、再び「着崩しファッション」としての「かたち」にして受け入れられたことを示してます。

つまり、「かたち」は一度否定された上で、再び「かたち」として受け入れられれば、それは「醜」ではなくなるのです。時代や国によって「美」や「醜」の共通認識が違う(江戸時代では下膨れのおかめ顔が美人とされてたとか)のは、このように「かたち」が移り変わっているためなのでしょう。

p.s.

「美醜(かたち)」は動的に変化する。わたしももちろん美人に憧れますしかっこいい人や美しい景色を目の保養にしたりしますが、そこに固執しすぎる必要もないような気がしてきました。

整形しまくって「今現在、この場所(国)で美しいとされている」の美人になるより、生まれ持った顔が満足いくものでないとしても、それは一つの、ただの個性ですし、受け入れて生きていけば良いんじゃないかな。

それに整形するより、他の部分で自分に自信を持てるように努力したり、他者からの評価を気にしすぎないメンタルを身につける方が健全かなぁと、思ったりもしました。

ちょっと難しいけど非常に興味深い本でした。興味がある方、もっと詳しい内容が知りたい方は、ご一読あれ。

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